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社会

川並宏子(英国ランカスター大学宗教学部専任講師) 「ミャンマー仏教事情と政治 」
2007年11月1日配信 「全仏」第534号(2007年11月号)

ミャンマー仏教事情と政治
川並宏子(英国ランカスター大学宗教学部専任講師)

全仏(発行:財団法人 全日本仏教会)
第534号(2007年11月号)
2007年11月1日

 ミャンマー社会と仏教ミャンマー(ビルマ)は人口の九割近くが仏教徒といわれ、東南アジアの上座部仏教圏でもとくに敬度な仏教国である。僧院は人々にとってたいへん身近なものであり、七歳から十二歳くらいの男子は通過儀礼として数週間、親元を離れて僧院生活を体験する。また、成人後も一定期間僧侶となり、世俗社会から離れて僧院で精神鍛錬を行うことが社会慣習として受け入れられてきた。
 このように流動的な僧院人口に対して、出家者として常時過ごす者は宗教省に『宗教者』として登録されており、現在、僧籍手帳を持つ者は全国で僧侶が約五十万人、尼僧は三万人いる。
 一般に上座部仏教は小乗仏教とも呼ばれ、他人の救済を考えることなく、自己の精神的覚醒のためのみに修行実践を標榜する利己的な教義のようにも大乗仏教からはみられがちであった。
 しかし、全国各地にある村落寺院では頻繁に供養会や法会が行われ、僧侶は年中行事や儀礼を司り、地域の支柱となって教育や福祉救済にも広くかかわってきた。また、『三衣一鉢』や『八資具』といわれる必要最小限の所持品しか僧侶は持つことが許されていないため、食物や生活用品のすべてを托鉢や信者の布施に依存することからも、その修行生活は世俗社会との頻繁な往来をふまえて成り立っている。
 托鉢は上座部仏教では修行の原点とされるが、これは重要な宗教行為である。僧侶は一日の糧を得るばかりではなく、人々とのかかわりにおいて、出家者としての自覚を養っていく。
 在家の信者からすれば、毎朝、僧に行う供米は積善行為であるばかりではなく、日々の生活のなかで倫理規範を堅持し、厳しい自己制御を実践する僧侶への深い尊敬や慈しみを表す信仰の表現でもある。
 その意味では昨今、ミャンマー軍事政権への抗議表明として、僧侶が軍や政府要人からの寄進を拒んだ『覆鉢』行為には重要な宗教的意義があった。また、わずか数週間ではあったが、ふだん政治にかかわることのない僧侶が全国各地で大勢、抗議デモに参加し、公正な社会と国民生活の安寧を願って読経しながら素足で行進するその姿は、軍事政権のもとで生活の困窮に喘ぐ多くの人々に勇気と希望を与えたのである。

ミャンマーの仏教事情と教学の学習

 ミャンマーには上座部九宗派がある。しかし、それらすべてが上座部教学という共通基盤に立つため、教義や生活様式に差異はほとんどなく、一応の宗派区分はあるものの、宗派ごとの教区が明瞭に定まっていることもない。あえて言えば、戒律遵守を大事にする度合いや規律に関する見解の相違が多少みられるだけである。
 僧侶の九割を占めるツーダマ派は規律がやや緩いとされ、キンマ(葉を噛む嗜好品)やタバコを嗜む者もよくみかけるが、規律に厳しいシュエジン派は教学の学習にも熱心で、全国的にもまとまりがある。そのほかの宗派は僧院数も少なく、僧侶数は年々減少傾向にある。
 ミャンマーの僧院を機能的に分けると、教学研修院、瞑想院、普通寺院などがある。また、僧侶には教学に励む学僧、瞑想を中心に修行を行う者、遊説する説法僧、慈善活動に励む僧侶など様々いるが、現在、ミャンマーで人々の尊敬を集め、軍事政権がとくに恐れるのは教学に勤しみ、組織力のある学僧である。
 今回も、僧侶と当局との衝突がはじめに報告されたのは、教学が盛んなパコクの僧院学校からであった。僧侶を対象とした官立の仏教大学としては一九入〇年代後半に二大学が設立され、また一九九八年にはヤンゴンに仏教伝道者を育成する目的でインターナショナル・テラワダ大学が開校された。しかし、ミャンマーの教学研修院は基本的には僧侶の私塾であり、今まで政府がその運営管理に干渉することはなかった。
 一般に僧院長には学識が深く、人格が優れた者が選ばれ、その采配のもとで僧院の運営管理と教育指導が行われる。高名な学僧や教育熱心な教授を抱える有名教学研修院には若い見習僧が全国各地から集まり、集団で共同生活を行いながら、熱心に経典の学習に励むのである。勉強が盛んな僧院学校は在家の檀家も大きな関心を寄せるため、たくさんの寄進が集まり、ヤンゴンやマンダレーなどの都市部には常時数千人という大勢の学僧を抱える大きな教学研修院もある。
 ミャンマーではパーリ三蔵の伝承維持と伝播を目的に政府宗教局が主催する教学の国家試験が毎年行われてきた。経典、戒律、パーリ語などの知識が七段階に分けられた試験で試され、『ダンマサリヤ』という五段階目の試験に合格すると教学の教授資格が授けられる。現在では尼僧もこの段階までは僧侶と同等に受験できるため受験勉強に勤しむ者が多いが、合格するまでに二十年以上かかることもある。
 最難関の三蔵五部試験は僧侶のみを対象として行われるが、第六結集で編纂されたパーリ聖典をよく理解し、細部にわたって正確に暗唱できなければならない。受験行程すべてを終えるには三十三日間かかり、最終的に試験に合格し、『ティピタカダラ』の称号を持つ僧侶はこの試験が始まって以来、七名しかいない。そのなかでも現在存命中の高僧四名は三蔵教学の頂点に立ち、ミャンマーの人々の深い尊敬を集めている。
 各試験で好成績を収めた合格者は高い栄誉と各種の褒章や品物が給与されるほか、新聞で報道されるため、全国の檀家や信者からたくさんの寄進が寄せられる。一方、ミャンマーの尼僧は八戒律を遵守し、その宗教的立場からいえば同戒律数を守る信者とあまり変わりがないようにもいわれるが、出家者としての生活を実践し、熱心に教学の学習に取り組んできたため、教育の普及や地位の向上がめざましい。
 また、国家試験に合格すると独立した尼僧院学校を開設できるため、受験勉強に励む尼僧は大変多い。一九四三年に始めての尼僧の教授資格者を輩出して以来、現在までに約三百名の尼僧が教学の教授資格を有し、全国各地の尼僧院学校で後輩の教育に専念する尼僧教授の数は着実に増えている。

ミャンマー教団組織と政治

 現在のミャンマーでは僧侶や尼僧などの『宗教者』は法的には政治参与を許されておらず、選挙権もないことからも僧侶の政治関与を時々の政権がいかに懸念してきたかということが伺われる。
 一九八〇年にはネ・ウィン政権がビルマ全宗派合同会議を開催し、初めて全国的なサンガ統制が試みられた。その結果、宗派の整理統合が行われ、出家者の身分規定と登録認定制度の実施や僧籍手帳の発効などが実施されるようになった。
 一九九〇年始めにはSLORC(国家法秩序回復評議会)のもとでサンガの再統制が行われ、全国の出家者の中央集権的組織がさらに整備され、僧侶、尼僧は国家組織のなかに組み込まれるようになった。そこでは国家、州、町、村落という各段階でサンガ評議会が構成され、国家サンガ評議会には四十七人の高僧が任命され、全国の僧侶を指導監督する立場におかれるようになった。また、地方レベルではサンガ評議会に選出された僧侶代表は出先の政府役所と連携しながら、僧侶の活動の監督、問題処理、教育の促進などにかかわるようになった。尼僧も州、町レベルの評議会には代表者が選出され、地域の尼僧教育や宗教活動が統括されるようになったのである。
 また、昨今、ミャンマーから『全国僧侶連盟』なる僧侶組織の結成が報道されたが、もともとミャンマーの仏教教団は全国規模の教団組織を政治的に統括してきたわけではなく、地域社会で求心力のある僧侶を中心とするまとまりで活動したり、師弟関係を軸に研修院の同窓生や卒業生が中心となった支援組織や連絡網を使って宗教活動を円滑に行ってきたのである。実際、教団内で問題が生じたり、僧院が紛糾した際に僧侶が意見を請うのは国家評議会に座る政府の任命僧ではなく、人格識見の優れた地元の高僧であったり、昔からの恩師であったりするのである。
 その意味では、ミャンマーの僧侶たちが今後どのような組織化をはかり、国の民主化へ向けての政治過程に参加していくかは予測できないが、少なくとも軍事政権の思惑どうりに僧侶が動くことはないだろう。【了】

(編注:Web上での読みやすさを考慮して適宜段落分けを行いました。元の原稿は節毎に一段落となっています。また著者からの指摘に基づき、「全仏」掲載時の原稿にあった二カ所の誤植を訂正してあります。)

川並宏子(かわなみひろこ):北海道小樽市生まれ。現在、英国ランカスター大学宗教学部専任講師。一九七六年上智大学外国語学部イスパニア語学科卒業、上智大学大学院国際関係論博士前期課程修了、ロンドン大学経済政治学院人類学部博士課程終了、哲学博士(Ph.D)。
専門は宗教人類学、比較仏教学。この二十年間、ミャンマー(ビルマ)で教学に励む学僧(尼僧と僧侶)に関する調査研究を続けてきた。一九八六年には尼僧となり、十六ヶ月に及ぶ尼僧院生活を体験する。