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民族・難民

バングラデシュのビルマ人―ロヒンギャ少数民族
2001年5月19日配信 山村淳平

ロヒンギャ民族の背景
 13~18世紀にかけてアラカン王国の傭兵として雇われ、また商人としてベンガルやペルシャからアラカンを往来し、その後住みついた人々の末裔および混血がロヒンギャといわれている。ビルマ西部のアラカン地方の人口は400万人で、そのうち200~300万人(50~75%)のロヒンギャ少数民族が住んでいる。

 一方バングラデシュ南東部にも約30万人のロヒンギャが定住しているが、この地域の入植をすすめてきたベンガル人による迫害もあり、一部はビルマに流入し、他にもサウジアラビア・インド・パキスタン・マレーシアなどイスラム圏に移住したりしている。各国に散らばっているロヒンギャの数は100万人と推定されている。ちなみに日本では約100人のロヒンギャが住んでいるという。

 言語はバングラデシュ・コックスバザール地方のベンガル語で、宗教はイスラム教である。

迫害の歴史
 ロヒンギャの迫害が始まったのは1942年からである(注1)。ミャンマー軍とともにモッグ族(注2)により、10万人が殺され、50万人が家を失った。

注1: 外部に知られ始めたのはこの頃であるが、以前から迫害はあったのだろう。現在もロヒンギャが各国に散らばっているのもそのためである。
注2: アラカン地方の仏教徒少数民族でロヒンギャとの対立はあり、ミャンマー政府はその対立を利用している。
 その後も迫害が続き、1978年ネ・ウイン政権のもとで operation king dragon作戦(編注:「ナーガミン作戦」とも)により30万人のロヒンギャが難民としてバングラデシュにのがれた。このときは国際的な救援活動が不十分だったため、1万人ものロヒンギャが亡くなり、その大半はこどもであった。のちに両国の合意が成立し、3年間ほどかかり20万人がビルマに帰国した。

 しかし、1982年の市民権法が成立し、ビルマのロヒンギャは無国籍(guest citizen)としてあつかわれるようになってしまった。ミャンマー政府は「彼らはバングラデシュからの違法移民なので、とりしまっている」という見解を示している。市民権が与えられないため、教育の機会や医療を受ける権利もない。職業も限られ、その多くは農民である。税金と称し作物・米をとりたて、それを払うことができなければ、強制労働に従事させられ、拒めば投獄されていた。ビルマ民族の入植もしだいにすすめられ、ロヒンギャはもとから住んでいた土地をおい出されていった。

 1988年アウンサン=スーチー氏らの民主化運動をロヒンギャは支持したため、ビルマ軍事政権はアラカン地方に7~8万人の軍隊を集結し、モッグ族とともに再び迫害・襲撃を開始した。また軍事施設や道路・橋を建設し始め、労働力としてロヒンギャをかりたてた。彼らは、強制労働させられるだけでなく、家の財産や家財道具・食料・家畜も略奪され、反抗すれば暴行や強姦もうけ、場合によっては殺されることもあった。この軍事行動はpia Taych作戦とよばれた。その結果、1991年12月末から1992年3月にかけてロヒンギャは1~2kmの川幅のナフ川を小船でわたり、あるいは山々を歩き、国境を超えバングラデシュにのがれた。その数は、28万人であった(注3)。当時としてはカンボジア難民(約35万人)にせまる数であり、このような急激な大量難民の発生は、最近の10年間についてみると、アジアにはなかった。

注3: バングラデシュ政府発表である。UNHCRの発表では23万人となっている。
1992年当時のキャンプ状況
 世界の最貧国のひとつであるバングラデシュ側に28万人もの難民を引き受ける余裕はなく、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)や国際NGOの協力が不可欠であった。

 コックスバザールから南に向かう道路沿いに13ヶ所の難民キャンプが設けられた。一キャンプに約1万人~4万人人の難民が生活していたが、キャンプ以外にも避難生活している人たちも多くみられた。きゅうごしらえの避難施設に住むことができたのは難民の60%で、あとは粗末な小枝を集めた小屋で避難生活を送らねばならなかった。

 食料の供給は、赤新月社により供給されていたが、十分でなく栄養バランスの偏りもみられた。水は、川・沼を使用し、給水車で水を供給し水の確保に努めていた。トイレは30%しか建設されていなく、あとは外へのたれながし状態であった。

 重度~中等度の栄養失調のこどもが10~20%にものぼり、疾病でみると、下痢と呼吸器疾患が多くを占めていた。1992年8月までに2100人が亡くなり、その大半はこどもであった(注4)。

注4: なんらかの重大な事態が生じると、もっとも犠牲をしいられるのは、5歳以下の乳幼児である。その時点での被災民や難民の状況を的確に判断するためには、5歳以下の乳幼児の状態をみることである。それが有効な指標となることがおおい。少数民族・女性・老人などの社会的な弱者についても同様である。
難民へのバングラデシュ側の対応
 難民はバングラデシュ側にとっては迷惑な存在である。長期化していくにつれ、次のような問題が生じてきた。

1) バングラデシュ地域住民と難民の対立UNHCRやNGOが活動するにあたって、食料・医薬品・建築材を買い占めてしまうため、地元の生活必需品などの物価が値あがりし、地域住民の生活がおびやかされるようになってきた。また難民は燃料用として木を伐採してしまうため、地域住民らの反感をかうことにもなった。食料の配給や無料の医療施設が与えられることで、地域住民の嫉妬もあるのだろう。その結果、地域住民のUNHCRへの攻撃や難民への略奪・暴行・イヤガラセなどがおきていた。

2) バングラデシュ政府と難民の対立バングラデシュ政府は、送還しない難民に対しイヤガラセ(性的も含む)や暴行をくわえ、場合によっては投獄したりして送還をうながした。この強制送還をめぐって、キャンプ内で難民の抵抗と暴動が生じ、何回かの衝突が繰り返され、死者も続出した。その後、UNHCRの仲介により衝突はおさまり、1994年ごろから帰還が徐々に開始された。 バングラデシュ政府は、この地域への外国からの介入を極端に嫌い(注5)、外国人調査団やジャーナリストのキャンプ内への制限をおこなっていた。ロヒンギャ難民の人権は、UNHCRや国際NGOの存在自体によって、かろうじて守られていた、といっていいだろう。

注5: この地域には、他にもバングラデシュ政府によるチッタゴン丘の少数民族への迫害と弾圧がある。
その後
1997年の状況
 UNHCRの資料よれば、20万人がビルマに帰還した。しかしバングラデシュ側にはまだ2万1千人の難民が2ヶ所のキャンプで避難生活をおくっていた。

2001年現在の状況
 バングラデシュ、ビルマ双方ともに情報がないため不明である。

出典:Junpei Yamamura, 'Burmese Refugees in Bangladesh: Rohingya minority', May 19, 2001.