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民族・難民

山本宗補「帰還の見通しないなかで 海外への再定住進む難民」
2008年4月9日配信 信濃毎日新聞

やまもと・むねすけ フォトジャーナリスト。1953年、(長野県)御代田町生まれ。ビルマのほかフィリピンの先住民族などを取材。国内では「老い」「戦争の記憶」をテーマに撮影・取材している。写真集に「ビルマの大いなる幻影」「また、あした 日本列島老いの風景」など。共著に「フォトジャーナリスト13人の眼」、「見えないアジアを歩く」(2008年4月刊)。

 軍事政権下のビルマ(ミャンマー)から逃れたカレン民族などが暮らすタイ国内九カ所の難民キャンプから、第三国への再定住が進み始めている。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によると、二〇〇五年から〇八年一月末までの約三年間で二万二千二百七十七人が、米国をはじめカナダ、ノルウェー、スウェーデンなど十カ国へ移住した。米国は昨年一年間に一万人以上を受け入れ、〇八年は一万七千人程度を受け入れる予定だという。

 二十年前、国軍が全権を掌握した時点で、一万八千人のカレン民族が難民としてタイに逃れていた。タイ国境に接するカレン州などの少数民族地域で繰り返される軍事掃討作戦によって、その後、難民は増え続けた。昨年、九カ所の難民キャンプの人口は一時、十五万人を超えた。

 難民条約を批准していないタイ政府は、ビルマ難民の第三国への移住を認めてこなかったが、増え続ける難民が国境地帯の不安定要因となり、財政の負担も増すなかで、〇五年に方針を転換。UNHCRなどと協力して、再定住を進めることに合意した。

 この二月にメーソットを訪れたとき、八階建ての病院の駐車場に仮設されたテントの下で、海外への移住を申請した難民たちが血液検査やレントゲン撮影などの健康診断を受けていた。南へ九十キロほど離れたウンピァン難民キャンプから来た人たちだった。

 青検査服に着替えていた家族は、二十一歳の長女を頭に、二十歳、十六歳、十三歳の子ども四人がいるマン・チョーチョーさん(47)と妻のチーウィンさん(46)。カレン民族同盟(KNU)の解放区だったカレン州コーカレイク地方の出身で、七年前から難民生活を送っている。マン・チョーチョーさんは「アメリカに行って、子どもたちに教育を受けさせたい」と言った。

 難民キャンプに暮らす若者たち、キャンプで生まれた子どもたちに、将来の展望はない。キャンプ内のハイスクールを修了しても、進学、就職の道はなく、軍政が続く限り、帰還の見通しは立たないからだ。健康診断を受けていた人たちに、海外への移住を希望する理由を尋ねると、「子どもの教育のため」という声が一番多かった。「ビルマを逃れてここに来ても、自由も身分証明もない」と語る人もいた。

 メーソット郊外には、UNHCRによって難民の一時宿泊施設が建てられ、海外移住を希望する難民は健康診断や面接を受ける間、ここに泊まる。フェンスで仕切られた隣接地には米国の専用施設があり、米国土安全保障省の担当官による面接が実施されていた。

 十歳で難民になったドソーさん(19)は、キャンプで結婚した妻(18)の間に、生後三カ月の赤ちゃんがいる。「子どもに良い教育を与えたいし、自分も勉強したいからアメリカに行きたい」と彼は言った。

 二歳の女の子がいるチョウツーラさん(29)も、米国への移住を希望している。カレン民族の彼の右腕には、「KAREN」の文字と、民族の象徴とも言える「カレン太鼓」の絵が入れ墨されていた。国境から歩いて数日かかるカレン州の平野部の村の出身で、妻のレレウインさん(28)はビルマ民族だ。「一九九九年に軍に襲撃されて家畜を盗られ、村を逃げ出した。村には帰りたくない。両親はもういないし、家も仕事もない」とチョウツーラさんは語った。

 ビルマ難民の再定住の受け入れについて日本政府は、昨年十一月に来日したグテーレス国連難民高等弁務官に、「検討する方向」と回答した。その後、野党議員二人がそれぞれ難民キャンプを視察したが、政府・与党の動きはない。メーソット周辺三カ所の難民キャンプを管轄するUNHCRメーソット事務所の所長、税田(さいた)芳三氏は「UNHCRはできる限りの協力を惜しまない」と話す。しかし、「民間の人権団体は調査に来るが、日本政府からの協力要請も現場視察の問い合わせもない」。

 日本政府は軍政下のビルマへの人道援助を続ける一方で、難民への援助には冷淡だ。少数民族や民主化運動への弾圧が続くビルマの民主化を支援する意志は、ここでも見えない。