社会


1998年1月1日配信 イェテイザ

1971年ラングーン、ラッター区に生まれる。1988年、民主化運動が蜂起した高校時代、政治活動を開始。同年8月8日のゼネスト前、ラングーン大学構内でのデモに参加。ゼネストの二、三日前、軍情報局の追跡をかわすため、実家から離居。
1988年9月の国軍による武力鎮圧後、全ビルマ基礎教育学生連合(ABBESU)に加盟。その仕事ぶりより、しだいに頭角をあらわし、組織の中央執行委員会に選出される。1989年8月逮捕される。1950年制定の非常事態法五条j項により、4年の懲役を宣告され、インセイン特別刑務所に収監される。その一週間後、ラングーン郊外北二百キロのタヤワディー刑務所に移送され、独居房で刑期の多くを送る。
1992年釈放。直後、仲間と接触し、政治活動を再開。しかし、1996年12月、ラングーンでのデモを最後に、ビルマの居残りを断念し、タイ-ビルマ国境へ向かう。現在、タイで亡命生活を送っている。

悪魔の登場

ABBESUの中央執行委員会のメンバーであったころ、私は、おもに政治問題を扱っていました。私もまた、多くの庶民がそうであったように、いろいろと苦労を抱えていました。そして、食料を買う金に困ることも多く、そのような時には、実家にお金を工面しに行かなければなりませんでした。

そのような日々のなかでも、とくにあの日のことは、たいへんはっきりと覚えています。それは、1989年8月26日の夕方。私は、ABBESUの会合から帰ってきたところで、夕飯も食べていませんでした。そこで、お金を工面しに実家に帰ることにしました。実家に着いたのが、夜の10時半ごろです。家に着いて十五分くらい、母に挨拶をしたりして過ごしていますと、家の正面に三、四人の男が大声で叫んでいるのが聞こえてきました。
「ドアを開けろ。さもないとドアを壊してでも入るぞ。」

母は、たいへん不安そうな顔をし、私をちらっと見、そして、ドアを開けに行きました。外にいる男達は、母が開けようとしているとドアを蹴り上げ、靴を履いたままズカズカと上がり込んできました。軍曹は三人の兵士を従え、そして、二人の私服係官、一人の大尉が中に入ってきました。さらに十人ぐらいの武装した兵士達が家の外に立っているのが見えました。

大尉は、なまりのあるしゃべり方をする人でした。その大尉は、私を見つめ、そして、母の方を振り返りこう言いました。
「おまえの息子を連れて行くぞ。ちょっと聞きたいことがあるんでね。」「息子が何か悪いことを? ただの学生じゃないですか……。」母は答えました。
「そいつは学生連合の運営に参加し、政府にたてつくようなことを言いふらしているんだぞ。知らんのか? これが、おまえの息子を連れて行く理由だ。」

大尉がそう言ううちに、二人の係官が、私の手を後ろに回し手錠をかけました。これに対し、私は、抗議しました。
「手錠をするな。私は犯罪者じゃない。こんなことされなくとも、おまえ達についてってやるし、何を聞いてもらってもかまわないぞ。」すると、国軍情報局の係官の一人が、私のあばらを殴りました。
「つべこべ言うな。」

そして、もう一人が、私の頭にフードをかけました。フードの外からは、私を殴らないようにと泣きながら懇願している母の声、そして、そんな母を、なまりのある大尉が邪魔だとどなりながら押しのけている様子が聞こえていました。

その後は、何も見ることができませんでした。二人の軍情報部の係官が私の腕をつかみ、家から引きずりだし、正面に止まっていた軍用トラックの荷台に私を詰め込みました。そして、その直後、係官達は、私にうつぶせになるよう命令し、私の頭や体をブーツで踏みつけ始めました。その最中、大尉は家の中を調査するよう部下に命じているのがわかりました。それから、一時間くらいたった後、兵士達は急いで戻ってきました。

そして、母の泣き声とトラックの出発する音が聞こえました。

私の仲間達

係官達は、尋問センターに行く道中、ずっと私を蹴り上げ、ののしっていました。到着しますと、荷台から降ろされ、フードをかぶったまま頭を下げ、歩くように命じられました。すぐにコンクリートの地面になりましたので、建物の中に入ったのがわかりました。そして、少し歩いた後、私を止め、部屋のドアを開け、中に蹴り入れました。

「そこに座わっていろ。」

そう言いますと、ドアをビシャリとしめ、立ち去って行きました。フードの中ではしっかりと息もできず、頭と顔は汗でびしょびしょ、そして、いまだ手錠はされたままでした。しばらくしますと、また、ドアが開き、誰かに立つように命令されました。そして、別の部屋に連れて行かれ、フードが取られました。長い間、フードをかぶっていたため、部屋の強い明かりで、何も見えず、もとにもどるまでには、少々時間がかかりました。すると、今度は、目の前の光景に、ショックを受けました。

そこにはたくさんの私の仲間がいるのです。フードをかけられ、後ろで手錠をかけられ、頭を下げ、ひざまずかされています。ある学生はバイクにまたがった格好で立たされ、膝は疲労と苦痛でふるえていました。そして、みんなは、うす汚れていました。

二人の軍情報部の係官が一人の学生を尋問していました。
「文章をどのように作って、どのようにばらまいているのか?」学生は胸を蹴られ、私の前に倒れながらも「知りません」と答えていました。

一人の係官が、その学生の首をつかみ、ほかの仲間のところに引っ張って行き、もう片方の係官が、私のところに寄ってきて、こう脅しました。
「最後はおまえだ。正直にしゃべらなかったら、ほかの奴よりも痛い目に遭うぞ。」

それから私は、家から私を引っ張ってきたあのなまりのある大尉に、部屋の外へ連れ出されました。

嵐の前の静けさ

仲間達への拷問の様子を見せられた後、私は大部屋に連れて行かれました。そこには一人の係官が座っていました。色黒で、力強そうな係官です。
「ソーチー大尉、彼から何かでてきましたか?」彼は、私を連れてきた大尉に尋ねました。
「家からは何もでてきませんでした。しかし、大丈夫です。」そう答え、私の方に振り返り言いました。
「証拠はあるんだぞ。もっとも、おまえと一緒に手に入れることはできなかったが……。」

部屋にいた係官は、名前をトゥンアウンチョーといい、軍諜報部第4部隊MI-4の出身ということでした。後に、彼が、おもに学生連合を調査している係官の一人であることがわかりました。彼は、面前のファイルをめくりながら、私に尋問を始めました。

「おまえの属する学生連合ABBESUは、合法組織か?」「私達学生が存在する限り、学生連合は存在します。合法です。」「我ら政府は、君たちを認めていないぞ。」「私達も、SLORCを正式な政府とは認めていません。」「おまえ達は、みんな若い。政治活動に参加することや、いまのようなセリフは、誰に教わったんだ?」「誰にも。私達は、現状を見て、ものを言っているだけです。」「おまえらの政治活動の裏にいるのは誰だ?」「本当に、誰もいません……。」私は答えました。
「私達の政治活動は、私達の気持ちを表しているのです。」「こんなことをして、大臣にでもなろうとでも思っているのか?」「私達は、自分のために活動しているのではありません。歴史を振り返ってみても、単に権力を得るために政治活動に参加して行くような学生連合なんていまだかつてあったことなどありません。」

ついで、学生連合の活動について聞いてきました。しかし、私は何も答えませんでした。
すると、次第に怒りだし、そしてこう脅しました。
「口を割らせる方法なんて、たくさんあるんだぞ。それに、上官からは、おまえを殺してしまっても何の問題もないとも言われているんだ。」

そして、トゥンアウンチョー大尉はソーチー大尉に何か命令を言い渡し、私の首をつかませ、他の部屋へと連れ出させました。

地獄への道

部屋から出ますと、ソーチー大尉は、私に後ろから再びフードをかぶせ、顔を殴り、頭を下げるよう命令しました。さらに、私の髪をつかんで無理矢理頭をうつむかせ、歩かせました。その時、彼は先導せず、横につき、いろいろと命令しました。床は平らであるにもかかわらず、目の前に障害物があるからかがめ、溝を跳び越えろなどと私に言うのです。また、蛙のようにスクワットしろとも言われました。まるで動物のような扱いでした。

そのうえ、たとえ、係官の言うとおりにお辞儀をしても、彼らは私の頭を棒で殴りつけ、こう言うのです。
「ちゃんと頭が下がっていないぞ。」同じように、言うとおりに物を踏み越え歩いても、すねを蹴り、「ちゃんとふんでない。」、飛びはねるように命令しては、すぐに揚げ足を取り、「ちゃんと飛んでないぞ。」と言うのです。そして、係官達は、それに満足しますと、私を別の部屋に連れて行きました。

今度は、バイクにまたがったの格好をしろとの命令でした。そして、私にいろいろと質問してきました。しかし、私が答えるのを拒みますと、殴りました。尋問するとき、そして、答えを拒否するとき、とにかく私を殴るのです。そして、私には決して、休みを与えないよう、係官達は交代しながら、尋問を続けるのです。たとえ、それが夜になっても……。私は、殴られ、そして、バイクにまたがった格好していることから生じる痛みで、何度も床に倒れました。すると、係官達は、その重いブーツで私を蹴り上げ、指を踏みつけました。そして、立てと命令するのです。ちなみに、手錠のはめられた手首や手は、少しでも動きますと、恐ろしく痛みを感じました。なぜなら、手錠は、どんな動きによってもきつくなるように作られた、特別製だったからです。

私は、一睡もしないまま、拷問で夜を明かしました。のどは渇ききり、とても水が欲しくなりました。水をお願いしますと、彼らは、長椅子に横たわるように言い、私のフードを取りました。そして、布切れを私の顔にかぶせ、上から、ゆっくりと水を注ぎ始めたのです。布切れはすぐに濡れ、息ができなくなりました。そして、係官はこう聞いてきました。
「水はもういいかね、それとも、もっと欲しいかね?」

水攻めの後、再びフードをかぶせられ、今度は角張った石を引き詰めた上にひざまづくように命令されました。係官達は、岩の上にひざまづいている私のあばらを蹴ったり、こめかみをたたいたりして拷問を続けました。殴られますと、体が動いてしまいますので、膝の皮は引き裂かれ、岩の上に血が滴り始めました。そこで、私は岩をどかしてくれるように頼みました。すると、今度は、床に足を伸ばして座らされました。そして、係官達は、尋問しながら、すねの上を横切るように棒を転がしました。それは、たいへんつらいものでした。彼らは棒を押しつけ、さらにに激しく転がしました。その痛さで、私の体は、すぐに汗でいっぱいになってしまいました。

また、尋問センターにいる間、私には十分な食べ物と水はもらえませんでした。仲間と一緒に食事しているときは、係官がフードを口まであげますが、手錠ははずしてもらえませんでした。食事は、大きな料理鍋のふたに入っていて、メニューは、腐ったダールスープと籾殻のついたままのお米でした。私達は、それを、体をまげ、すすって食べなければなりませんでした。そして、たまに、国軍情報局の守衛が見回りにきて、私達を蹴り上げ、もっと食べるのが遅すぎると言うのでした。

刑務所に移送される前、私達は、尋問センターのある部屋で一晩過ごさなければなりませんでした。そこは、湿っており、腐ったにおいがし、ゴミでいっぱいでした。私達全員の両足すべてが、一本のロープで一つに縛られ、部屋の両端の柱に結ばれていました。誰か一人が動きますと、ほか全員の足が締め付けられました。したがって、まんじりともできませんでした。そのうえ、夜中、守衛がひっきりなしにやってきてこう叫ぶのでした。
「このやろう、まだ寝てないのか」

朝、私達は、警察の留置所に送られました。出発前、ナインウイン大尉、アウンヂン中尉、二人の拷問係官達を見ることができました。それまでの数日間は、拷問の最中、二人の声を聞いていたことがあるだけでした。二人は、私達の写真を撮り、全く内容の知らされていない書類にサインをするように命令しました。書類を覗こうとしますと、一人が、私の頭をひっぱたき、そして、こう大声を張り上げました。
「おまえは、中身を見る必要はない。」

警察の留置所

私達はそれから、警察の留置所に移送されました。二日後再び、フードをかぶせられ、後ろから手錠をされ、別の部屋に連れて行かれました。そこでも、バイクにまたがった格好をするように命じられました。そして、係官が入ってきて、ABBESUのマンダレー支部のことについて、いくつか尋問されました。答えるのを拒否しますと、係官は怒り、脅しをかけてきました。
「これから、私の恐ろしさを知ることになるだろう。私は、おまえが以前に会ったことのある奴よりもずっとタフだぞ。おまえ達学生を、ジュースを搾り取った後のサトウキビの残りかすのようにしてやるからな。」

そして、ロープで私の足を縛り、逆さつりにしました。そして、あばらを蹴り、尋問を続けました。しかし、やはり、私は何も答えませんでした。すると、係官達は怒りだし、ひもを解き、いすに座るように命じ、そして、ボールペンを一本取り出しました。そして、その一本のボールペンを何本かの指の間に通すようにはさみ、そして、強く私の指を握りました。その痛さは、体全体でもだえ苦しむほどでした。

これが終わりますと、係官は、部屋にある電球に手を伸ばし、私の頭の上に降ろしました。明かりは、非常に熱く、頭の温度は上がり始め、めまいがするほどです。これを一晩中やられた後、朝、監獄に戻されましたが、目は何も見えず、頭はくらくらし、指はむくんでいました。

私達は、留置所にいる間、両親に会わせてもらえませんでした。これは、親が子供の体のあざや傷を見て、拷問が行われていることが、外にばれてしまうことを恐れていたためです。

その後、留置所から私達は、インセイン特別刑務所に移送されました。私はその後、さらにタヤワディー刑務所に移送され、そこで、三年間拘留させました。その間、ほとんど、独居房生活でした。(了)

(訳:鶴田浩史)

出典:Ye Teiza, The Storm, in Tortured Voices: Personal Accounts of Burma's Interrogation Centers, All Burma Student Democratic Front, 1998, p.123-130.