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社会

レオ・ニコルス氏の最期
1998年1月1日配信 モーエイ

▽ニコルス氏の歩み抄録
 ジェームズ・レンダー・ニコルス氏は1931年、オーストラリアに生まれた。ビルマ在住は長く、1945年から、企業が国営化された1962年まで海運会社を経営していた。ノーベル平和賞を受賞した民主活動家・アウンサンスーチーの後見人でありまた親友でもあった。

 レオ・ニコルスは1969年に在ビルマ・ノルウェー名誉総領事に任命され、その後1978年にはデンマーク総領事となった。1993年には国家秩序回復評議会(SLORC)[軍事政権の旧称。現在はSPDC=国家平和発展評議会] により名誉総領事としての資格を取り消されたが、なお事実上は同総領事としてノルウェー、デンマーク、フィンランドの北欧三国およびスイスのために執務を続けた。

 ニコルス氏が逮捕されたのは1996年4月5日、当局の許可を得ることなく電話とファックスを使用したという容疑によるもだった。しかし実際、これは、アウンサンスーチーに近しい関係をめぐる逮捕であったことはよく知られている。1996年5月20日、彼は懲役3年と5000米ドルの罰金を宣告され、その1カ月後の6月22日、再審請求中の身のまま獄死した。

 SLORCは当初、ニコルス氏はヤンゴン総合病院で卒中のために死亡したとしていたが、 オンジョー外相は死因はニコルス氏は「食べるべきでない」食物を口にしたためであると述べた。レオ・ニコルスは死の翌日、慌ただしくヤンゴンの墓地に埋葬された。検死も行われず、急な埋葬であったため、家族も葬儀に立ち会うことができなかった。レオ・ニコルス氏の遺族にはフェリシティ夫人と5人の子供がいる。

▽筆者について
 目撃談をまとめたモーエイは、ヤンゴンにあるインセイン刑務所で7年間収容され、うち最後の1年はニコルス氏と一緒だった。モーエイは現在、全ビルマ学生民主戦線で活動している。

 私がインセイン刑務所でニコルス氏に会ったのは1996年5月のことだった。当時私は、7年の刑期の最後の年をつとめようという時期であり、この頃ビルマの軍事政権は海外からの観光客獲得キャンペーンに躍起になっていた。彼らは「ミャンマー観光年」と命名していたのだった。とはいえこの年、軍事政権の指導者たちは数多くの外国人を投獄していたのである。投獄された外国人の大半は中国、シンガポール、マレーシアに台湾といった国々の出身であり、主として商用の訪問者にすぎなかった。投獄された中には400人以上のタイ漁師がいるが、私はこの人々を外国人として勘定に入れていない。彼らの逮捕はあまりにありふれているからであるからである。

 投獄された外国人には数多く出会ったが、ビルマ人とのつながりを持つ人物を思い出すのはそのうち2人である。うち1人はドクター・シュム、ユヌックまたはソーヤンナインの名でも知られ、マレーシア国籍を持つビルマ人であった。彼はビジネスマンであると同時にアーティストでもあり、作詞活動もしていた。もう1人がかのレオ・ニコルス氏である。彼がビルマ国籍を持っているのかどうかはわからなかった。私が知っていたことと言えば、彼がデンマーク駐在の名誉総領事であること、ドー・アウンサンスーチーに極めて近い立場にいるということぐらいであった。ドクター・シュムとニコルス氏は共に、政治犯が収監されるインセイン特別刑務所へ送られた。ビルマ軍事政権がこの二人に対しとりわけ恨みを抱いていたという事実はこの頃、インセイン刑務所の収容者の間では周知の事実だった。

 1996年5月のある宵のことだ。他の囚人と一緒に、屋外にいて便器の中身を空けていた時、黄色いスポーツシャツを着て白い囚人用ロンジー(巻きスカート)をまとった男を見かけた。頭を青いフードで覆い、トラックの荷台に、米壷の間に潜むように座っていた。トラックは通常、インセイン刑務所の主要棟から我々の特別棟へ米やカレーを入れた壷を運んでいた車両だった。「新入りが来たか」という思いだった。

 まったくの好奇心から、しばらくぶらつきながら私たちは新入りの囚人が誰なのか知ろうとした。私は、知り合いの誰か、おそらく仲間の学生か誰かではないかと考えた。彼を降ろしてから米壷をおろすがわかった。主要棟の事務所へ連れられていったその男は、長身で肌の色は白く、後ろ手に手錠をかけられていた。

 ほどなく、2人の看守が、われわれの入っているホールのところへ彼を連れてきた。男はすでに手錠は解かれフードも外されていた。ビルマ人というよりは他国から来た白人という感じだった。眼鏡をかけ、ビルマ人用の囚人用ロンジーでは居心地が悪そうだった。布も膝まで届くのがやっとの長さであった。彼は、それがちゃんと腰に締まっていないかのように、歩きながらロンジーを外してはまたつけ直すということをしているのが見えた。

 自分の房に着くと、彼の大きな額と薄い髪がはっきり見えた。ショックを受け恐怖にさらされていたのがはっきりわかった。

 われわれは彼に声をかけたかったのだが、随伴してきた看守2人に警告を受けた。「今は話しかけるな」「国軍情報局の大尉がまだ主要棟の事務所にいるんだ」。看守たちの態度は友好的であったため、われわれはその言葉に従い新人の外国人には微笑みかけるだけにしておいた。男はぼんやり虚ろな顔のままわれわれを振り返ったが、われわれにひとことも口を利かなかった。しばらくして、看守たちがニコルス氏を第五監房へ連れていくのが見えた。ただ、幸運なことにその房の隣には、その外国人の囚人を知っているNLD選出の国会議員が入っていた。すぐ二人は英語で話し始めた。看守たちは英語を理解しなかった。

 30分ほど経つうちに、男の名はレオ・ニコルスといい、アウンサンスーチーを支援したとの理由で3年の収監を命じられたことなどがわかってきた。赤痢に罹っていることがわかり、我々はただちに薬探しにかかった。レオは刑務所の食物は食べられないと言ったので、他の政治囚の間を廻ってビスケットや他にも腹ごなしになりそうなものを集めた。信頼できる看守の一人を通じてそれらを手渡しながら、しばらくはそれで飢えを癒してくれるようにと願った。

 ニコルス氏が不運であったのは、ちょうどその時は、我々は家族の面会があった後であり、また、密かに溜め込んでいた獄の食物もほとんど切れていた時であったことだ。このため彼にはあまりいいものを渡せなかった。のち、国民民主連盟のこの代議員がニコルス氏に対し、政治犯や外国人囚人が持つ権利について、英語で説明したことを我々も知った。彼はニコルス氏に、刑務所高官に話して諸々の権利を要求するよう助言した。議員はまた、ニコルス氏の監房は政治犯用のものであり、落胆する必要がないとも説いた。ニコルス氏は廻りに政治犯が他にもいることを聞くと、皆に英語で「ハロー」と言ったのだった。

 ニコルス氏が獄入りしたその夜、国軍情報局の役人がやってきて、さらに尋問しようとして彼を連れていった。彼が連れて行かれたのは、看守たちが消灯を告げてからのことだった。行き先はインセイン特別刑務所の尋問詰所だった。いつものように、フードが頭からかぶらされた。ニコルス氏は尋問室で一晩中かけて尋問を受け、拷問された。我々は、看守が次の日の夕方になって彼を房に戻すところを目撃した。

 我々は、自分たちの房を出る機会があると必ず彼の房のあたりを歩いて励ました。看守の姿が見えなくなると、英語が話せるものはただちに彼に話しかけ、様々な質問を投げかけた。

 彼が私たちに語ったことはまだ多少覚えている。彼は自分の拘留の理由を、アウンサンスーチー支援のためであること、彼女にファクス送信をしたためであると語った。それがゆえに彼は重労働を伴う3年の刑を命じられたのだというのだった。その裁判所で彼は略式裁判による判決を受けたという。彼は裁判所の名を告げることはできなかったが、我々に、それが特殊な裁判所であることを何とか表現しようとしていた。

 判決に先だって、ニコルス氏は国軍情報部の尋問センターへ連行され、連続6日間にわたって尋問を受けた。彼によると、情報部員が逮捕に来た時、彼は所持金すべてを没収されたという。その額は200万チャット以上に上ったらしい。その金はメイミョウにある土地の売却によって、少し前に得たものらしかった。我々には、それが彼の土地であるのか、その他人名義の土地であるのかはわからなかった。彼は土地売却をしてから逮捕されたのだと語った。

 彼は、判決後、そして我々の監房に来る前にどこへ送られていたのか明確に言うことはできなかった。しかし、多くの囚人がいる建物に入れられ、数日をそこで過ごさねばならなかったと言った。のちに彼は小さな部屋へ移されてさらに数日過ごしてから、我々のいる建物へ入れられたのだという。

 刑務所当局はニコルス氏がインセインに到着してすぐ、彼の腕時計と衣類を没収した。身につけていたズボンも奪われた。刑務所ではズボンの着用は認められていないと、刑務所の役人が言ったためである。その代わり、白い囚人用腰布と白いシャツを支給された。彼は、その時に彼が身につけていた黄色いスポーツシャツは、囚人の一人がくれたものだと言っていた。

 我々は彼に、到着時、ぶたれたり、足を交差して背筋を伸ばして座る「ポウンサン座り」(脚注1参照)をさせられなかったかと尋ねた。彼は、ぶたれはしなかったものの、その座り方を長時間強要されたと語った。そう語る時の彼の声に、苦痛の色が滲んでいるのがわかった。彼の話の内容から考えると、ニコルス氏は、判決前に容疑者が収容されるインセイン内の一区画に留置されていたらしいことが想像できた。彼が3年の刑を申し渡された日に、おそらく彼は、懲罰房で知られる第6監房に移されたか、「犬小屋」房か、尋問棟内の分離房のひとつに収監されたのだと我々は考えた。また、彼にポウンサン座りを長時間させることで軍事政権は彼に対する激しい憎悪を示してみせたのだとも我々は推測した。

 この話で思い出すのは、ウー・ウィンティンとサヤー・ウーティンモーの、当時インセインで最も有名だった2人の政治犯のことだ。軍事政権は、国民民主連盟の中央執行委員であるウー・ウィンティンを、ゆすりたかりや暴行で悪名高い犯罪者がいる監房へ入れた。その情熱的な詩で広く知られるサヤーユーティンモーは、到着すると、懲罰用「ポウンサン」ホール(脚注2参照)で知られる第五監房行きを強いられたのだった。後に彼は同じ棟にある房で犯罪者たちと雑居を強いられた。しかしこの2人は自宅から持ち込んだシャツとロンジーの所持を認められたのに対し、ニコルス氏の場合、所持品の携帯を一切認められなかった。このことから我々はニコルス氏はおそらくこの政権にとって最も憎まれた囚人であったろうと考えたのだ。

 ニコルス氏はまた、糖尿病を患っており、それが一層、彼の状況悪化に拍車をかけた。糖尿病患者であるために、彼もまたその食事にはきわめて慎重でなくてはならなかった。さらに彼は定期的な運動も必要としていた。しかしながら、苦しみを緩和するために必要な適切な食事も定期的な運動もいっさい適わなかったのである。

 ニコルス氏は、尋問の間ずっと座ることを許されず、座ったり歩きまわったりして体のこわばりや痛みを減らそうとする試みさえ禁じられていたと語った。仲の良い看守によると、国軍情報部の係官とニコルス氏は尋問室での尋問の最中、英語で、怒りに満ちた言い合いになったこともあったらしい。看守が耳にしたところでは、係官の間で、どうすればニコルス氏の志気を衰えさせるかの方途について話し合い、彼に「教訓」と共に「心理的拷問」を与えるには何がベストかを話し合っていたという。我々はまた、尋問担当官たちが下したその非情な決定についても知ることとなった。同じく我々と親しかった別の看守が言うには、情報部の少佐ソーニュンが、ニコルス氏への尋問報告に目を通してから、結果の如何を斟酌せずに職務を遂行せよと部下らに命じたという。少佐の言は「この者の状況がどうであれ、手を緩めるな。何が起ころうとも一切の責任は私が負う」というものだった。

 ニコルス氏は、尋問に連れて行かれる夜が怖い、と我々に打ち明けるように言った。痛ましく打ち震え、彼は一連の尋問中、身にふりかかったことについて順々に話すのだった。彼はインセインに来る前にも数え切れぬほどの尋問を受け、依然終息の見通しを持てないと語った。「尋問は絶え間なく続いてきた。これをやり過ごせるのかまるでわからない。もう耐えられないんだ」。

 ニコルス氏の言によると、国軍情報部に対し、ドー・アウンサンスーチーのために自分がやったことは残らず話したのに、まだ話してない支援がある筈だ、との誤った考えのもとに、彼らはニコルス氏を繰り返し尋問した。

 我々はニコルス氏に、悪化する自らの健康状態について、特別刑務所を管轄する主任看守のウー・サンヤーと副主任のウー・ミンウェイに訴えかけをするよう示唆した。しかし、ウー・サンヤーはニコルス氏に、自分は国軍情報部の許可なく赤痢や糖尿病、高血圧などのための薬を渡す権限は自分にはないのだと語った。彼はニコルス氏に対し、「残念だが君の糖尿病を配慮した食事を用意することはできない」と告げた。

 しばらくして、ウー・サンヤーは我々に警告して言った。「おまえたちはニコルス氏に薬や食物、衣類を与えてはならない」。彼は、もしも情報部が抜き打ち査察を行い、その時に彼が房に所持しているはず以外の物品を見つけた場合、特別刑務所の全職員は職を失うばかりではなく、裁判にかけられることになるのだ、と言うのだった。「それに、食物薬を渡したおまえたち囚人も厳しく罰せられるのだ」とつけ加えた。

 悲惨さに輪をかけるように彼を襲ったもうひとつの不都合が排便であった。しびんの使用は困難だったし、といってその代わりとなるものもこれといってなかった。ビルマ人囚人にとっては特に問題はなかった。というのも、収監されて数日、幾週間かは煙草の吸いさしや竹編みのマットから切れ端をつかんで、用を足した後の処理に使えば良かったからだ。しかしニコルス氏にはきわめて不快でまごつく問題であった。

 我々は彼に古い囚人服の切れ端を幾らか渡し、飲み水用ポットの水に浸して尻を拭くよう言った。囚人の一人は、自分の新しいロンジーとニコルス氏が着ていた古いものとを交換し、また別の囚人は一時的に、自分のシャツとニコルス氏の黄色いスポーツシャツを取り替えた。これによってニコルス氏のを洗ってやることができた。

 我々は水場の片隅に石鹸ひとかけらを隠し、ニコルス氏のために取っておいた。可能な限りの手を尽くしてニコルス氏を監視する看守を言い含め、彼の入浴に目をつぶってくれるよう計らった。そういうことで、彼は多少なりとも時間をとって入浴できたわけである。我々は看守に対し、こうしたことを上司に報告しないでくれと乞い願った。この試みは成功したと見えて、ニコルス氏絡みで役人からどうこう言われることはついぞなかった。ニコルス氏は、他の政治犯が彼の房を通り過ぎるたびに他の政治囚皆に何度も礼を言っていた。その感謝の表現を見ていると、彼が我々の支援をよくわかっていることが感じられた。

 ニコルス氏がインセインにいた間、彼が関心を示しかつ深く憂慮の念を抱いていた政治犯が4人いた。僧衣を力づくで奪われ、10年の刑を宣告されサヤー・ドーウーニャーナ師、当時は弱冠20歳だった最年少の政治犯ハンウィンアウン、収監は2度目になっていたチョーソーリン、そしてテイントゥンウーの4人だ。ニコルス氏は、ハンウィンアウン、チョーソーリン、テイントゥンウーがその政治活動のゆえに7年の収監を強いられていると知って、繰り返し「なんてことだ!」と叫んでいた。投獄の長い年月を深くおもんぱかり、自分の耳を疑うといった思いだったようだ。彼は同情心と怒りのあまり、彼ら4人のことをもっと知りたがった。機会さえ許せばいつでも彼らと話をしようとしていた。ニコルス氏は、出獄できたあかつきにはビルマの政治犯がおかれている惨状を世界に訴える、と皆に約束した。彼はついぞその約束を果たすことができなかった。

 ある日我々は、空になった米壷を運ぶトラックで、彼が国軍情報部によって連れて行かれるところを目にした。いつものように、頭にはフードをかぶっていた。彼が戻ってこれなくなると、我々はとても心配になってきた。4日後、彼は情報部の役人と共に姿を現した。彼の足は腫れ、顔は膨れあがっているのがわかった。役人たちが去ると、ニコルス氏は尋問中立ちずくめで休息を許されなかったことを話した。彼は、投獄されてから後もなぜこのような扱いを受けるのかわからなかったのだ。何度となくそう言っていた。情報部は、ビルマに対し欧州連合が取りうる行動について、彼の考えを繰り返し尋ねた。アウンサンスーチーの私的な生活についての質問もしていた。

 我々は、特別刑務所で医療を担当しているウー・ティンウィン看守に呼びかけ、ニコルス氏が必要とするケアを与えてくれるよう要請した。看守は、ニコルス氏の件は国軍情報部が扱っているので、自分にできることはないのだと説明し、そういう状況を理解してほしいと言った。しかし彼は、我々に対し、藻類を利用した錠剤を毎日最低四個、ニコルス氏に与えるよう薦めるのだった。これは秘密裏に行われなくてはならなかった。この助言をもとに我々は、看守の一人に藻類錠剤の瓶の購入を頼んでニコルス氏に一日二度、薬を与えようと計画したが、ニコルス氏が我々の薬を呑む機会はなかったのである。

 ニコルス氏が房に戻って数日後、再び情報部は、フードをかぶせられたままのニコルス氏を連れ出した。我々がニコルス氏を目にしたのはこれが最後となった。

 ニコルス氏が特別刑務所の第5監房にいたそう長くもない期間、彼が自分の房に24時間いられるということはついぞなかった。彼は絶え間なく尋問を受け、行き先も次から次へと変えられた。彼が最後に房から連れ出された時、彼はひどい赤痢を病み、嘔吐と目眩に喘いでいた。両足は歴然と腫れあがり、まともに歩くこともままならなかった。

 最後に連れて行かれる前、ニコルス氏は、あたかも永遠の別れをするかのように、近隣の囚人に別れの言葉を告げていた。彼はNLD所属の国会議員に対し、「もしも役人たちが、今度また尋問のために私を立たせ続けるなら、私は床にくずおれてしまうだろう。もうこれ以上耐えられない。もう一度ここへ戻ってこれたらそれは僥倖というほかはない。私が戻らなければ、ここの皆さんに私が皆さんの親切なご助力に感謝している旨お伝えください」と語った。

 一週間後、我々はニコルス氏が亡くなったという悲しい知らせを聞いた。我々が耳にしたことといえば、彼は後戻りできない道を選ばずにはいられなかったということだけだった。(了)

注1:「ポウンサン」座りは、当局が囚人を尋問する時に用いた手法で、囚人数の把握と懲罰が目的。囚人は床であぐらをかいて座り、両手は膝に、背を伸ばし頭は曲げていなくてはならない。
注2:「ポウンサン」ホールは、新しい囚人が連れ込まれ、刑務所の規則を教えこまれる場所である。懲罰にも使われた。

(訳:西村勝也)

出典:Moe Aye, The Last Days of Mr. Leo Nichols, in Tortured Voices: Personal Accounts of Burma's Interrogation Centers, All Burma Student Democratic Front, 1998, pp.131-139.