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社会

ラングーンのランデヴー
1998年4月13日配信 ビジネス・ウィーク 1998年4月13日号

サンドラ・ダラス編「ビルマからの手紙」

ラングーンのランデヴー

ビジネス・ウィーク 1998年4月13日号

乗ったタクシーは、空港からラングーンの中心部へゆっくりと近づく。寝つかれない夜にも似た重苦しい雰囲気が肩にのしかかる。道がガタガタで車のスピードは落ちる。道の両脇には、銃剣を手にした大勢の兵士が50歩おきに立つ。タクシー運転手は「国軍記念日の準備なんだよ」と説明してくれた。だが、それは3週間も先のこと。こんなに大勢の兵士が重武装して何の準備というのでしょう、怖くはありませんか? 「平気だよ、慣れたさ」と運転手。彼には、軍による10年間の独裁がつくりだした警察国家に対するあきらめがみえる。

銃器が居並ぶ光景を見、バッグを握る力が少し強まる。中にはひそかに持ち込んだ危険な品が入っているのだ。さる人から、亡命中の中国人政治囚・魏京生が、ビルマの民主化運動の指導者でノーベル賞受賞者のアウンサンスーチーに宛てたメッセージを託されている。「わたしたちは同じ目的を目指してたたかっています。わたしたちが目指しているのは、人々の権利と幸福、平和、そして人間性の発達なのです」―彼の著書『勇気とともに独り立つ』(The Courage to Stand Alone)のカバー裏に中国語で書かれたこのメッセージは、「力を合わせ、団結しよう。独裁者たちに対してたたかいつづけるために」という言葉ではじまる。兵士たちがかもし出す重苦しい空気に包まれていても、この本からは強い刺激が伝わってくるのを感じる。兵士たちが持つ銃すべてを圧倒するほどの力があるようにさえ思える。

ビルマが現在のような状態に追い込まれたのは悲劇といってよい。50年前のビルマはアジアで最も進んだ国のひとつだったのだ。石油、宝石、木材に富み、ほとんどすべての大人に読み書きの能力があった。そして今、軍事政権がミャンマーと呼ぶ国、ビルマは、地球上でもっとも開発の遅れた国に、抑圧と内戦、人権侵害の代名詞となってしまった。

強硬派の将軍たちは反体制運動を10年以上にわたって弾圧してきた。政府に反対する者を投獄し拷問を加え、1990年の選挙結果を無視した。スーチーはその中にあってカリスマ性を備え、自宅に軟禁されていたにもかかわらず、選挙で圧倒的な支持を得た。彼女が法的に正当な指導者と多くの人が認めるにもかかわらず、権力は未だ移譲されないままだ。

ホテルでスーチーにメッセージを渡す計画を立て、私は着替えをカバンに詰めた。タクシーの後部座席で、ピン止めした髪を野球帽の中に隠す。ニューヨークで関係者と接触した際に受けた指示を参考にし、タクシーを家から一ブロック離れたところに停めさせた。ここの家人が仲立ちとなって、スーチーに本を渡し、彼女との会見をセットしてくれるはずだ。

警告:門を叩いたのは夜も9時近かった。公安警察が通りの反対側に車を止め、色のついたガラス越しにこちらの顔を一瞥した。彼らに気づかれないように動く。犬が吠える。女性がドアを開けたが、またすぐに中に駆け込んでいった。心臓が激しく波打つ。数分後、門が開く。私が人々を連行することを目的とし、皆から恐れる夜遅くの訪問者かどうかを見極めていたのだと、後で聞かされた。

将軍たちは最近特に苛立ちがはげしいから気をつけてと注意を受けた。用心してかかる必要がある。ホテルに戻る途中で髪を下ろし、ドレスに着替え、からからだったのどを潤した。尾行は振り切った、はずだ。

スーチーに会いに行くのは数日後になったので、街を見て回る時間ができた。外の世界の人と英語を使った話をしたくてたまらない人の多さに驚く。中央市場では英語を練習したがる若い男性をつかまえて、スーチーのことを聞いてみた。彼は警戒した顔を見せたが、そっと一言「とてもいいね」と答えた。政治的な見解を求めると、彼は口に指を当て、慎重にあたりをうかがい、手錠をかけられたような仕草をしてこう言った―「スパイだらけなのさ」。ビルマ人が外国人と政治について話をすることは法律で禁じられている、ビルマ人同士であってさえもだ。

彼が一番頭にきているのは、軍事政権下での生活が苦しいこと。普通の仕事では生活費の10分の1しか稼げず、残りを補うために現金収入を得ようと躍起になっている。東南アジアの通貨下落の影響を受け、通貨は40%下落した。外国企業は投資を手控えている。彼は「アメリカに行きたいな、とってもいいとこなんだろ」と言う。2日後、アウンサンスーチーと会う。この前の家に向かう。今度は昼間だ、待ち構えていた公安に正面から写真を撮られた。顔を手で隠したから、はっきりとは写らなかった。中でスーチーが来るのを待った。

優雅な物腰:すらっとしたスタイルに明快な頭脳を備え、すぐれて落ち着いた女性を想像していたが、期待は裏切られなかった。彼女な歩き方はまさに優雅そのものだ。白いトヨタに乗るように促され、席を並べる。緊張が走り、会話が途切れたのは、運転手がスーチーの自宅までカーチェイスを繰り広げたからだ。5つの支部からやってきた公安警察と軍情報局の車が高速で私たちを追いかける。後ろを見ようと首を回すが、振り返らないようにと注意される。大学通りにある白い家、スーチーの自宅を囲むバリケードを通過するまで車はついてきた。この家に彼女は6年間軟禁されていたのだ。表向きは1995年以来自由の身になった彼女だが、実際にはあらゆる行動に対して厳重な監視が行われている。

ご飯と魚料理で昼食をとりながら、彼女はアメリカが軍事政権に対して経済制裁を続行することの重要性を説き、民主化への思いを語った。「今観光や投資のためにビルマを訪れることは、何らビルマの人々のためにはなりません」。オックスフォード仕込みの英語で話す彼女。優しいが強い意思が感じられる声。「西側の民主国家の企業が現在のような状況にもかかわらず投資を進めるというのであれば、それは結局のところ、軍事政権に人権侵害を続けても構わないのだと考える根拠を与えることになるのです。」 会話はテープで録音していたが、すぐに手で書き取ってもおき、それを下着に隠して家を出た。照りつける太陽の下をバリケードのところに立つ兵士の方へ歩いていった。

呼び止められて尋問を受ける。「名前は?」「パスポートは?」「ここで何をしている?」「職業は?」――事務的でしつこい。「ホテルは?」「部屋番号は?」「帰りの便は?」 私はラングーン中に散見させられるスローガンを大書した屋外広告の正面で引き止められている。それにはこうある――「人民の願い:共通の敵である国内外のあらゆる破壊分子を粉砕せよ」。

私が「国外破壊分子」? 公安警察がホテルの前で待ち構えていて、私は「粉砕」されるの?――ぞっとしてきた。タクシーを拾い、すぐ出国することにした。予定より32時間早い。ホテルに着くと、フロント係に呼び止められた。「すぐにお発ちになりますか?」と彼女。その言葉には、単なる質問以上のものを感じた。私は今朝、もう一泊すると言ったばかりなのだ。明らかに私に向かって言っているのだ、「空港まで無料でお送りしますよ」との申し出が耳に入る。彼女が指すバンには既にエンジンがかかっている。

空港に着き、イミグレ、出国税、関税でそれぞれスタンプを受ける。次第にほっとした気分になる。しかしそれもつかの間、離陸は日暮れ過ぎまでずれ込んだ。再び不安が強まる。公安警察が乗客リストに私の名前を探しているのではないかと想像する。発着所から滑走路に出て行くときに、不安は現実のものとなった。公安がカメラを持って待ち構えていたのだ。フラッシュがたかれる。すぐに私は持っていた合州国のパスポートで顔を隠す。

はっきりと撮られてしまった? わからない。けれど黒服の公安が、夜の滑走路を飛行機の翼の下までつけてきた。フラッシュだ。今度ははっきり写ってしまった。完全に特定されてしまった。ステップを昇る間中、心臓が鳴りっぱなしだった。彼らは見せしめのために席に座らせるだけ座らせておき、後で連行しようというのだろうか。着席しシートベルトを締め、自由の国である祖国のことを思う。勇気を出さなければ。機長は出発が遅れたことをわびた、私のせいだ。飛行機が離陸に向けて滑走路を移動するにつれて呼吸は整う。国に帰ったら、自由な生活を当然だと考えるのはやめにしよう。自由を大切にしたい。選挙にも必ず行くことにしよう。クリントン宛てに手紙を書いてもいい、それが私にできることだから。

ビルマに住む人々、国内に足止めされたまま民主主義を求めてたたかう人々のことに思いは及ぶ。人々はこんなにおそろしい抑圧の中を日々暮らしているのだ。アムネスティ・インターナショナルによれば、ビルマには少なくとも80人の「良心の囚人」がいる。政治的信条を平和的に表明したというそれだけの理由で監獄につながれているという。ある人に言われた「アメリカ人でよかったな」と。ええ、そうでなかったら捕まっていたわ。

[文:シェリ・プラッソ]

本誌アジア・エディターのプラッソは、AFPの特派員として5年間東南アジア報道にたずさわった。彼女のビルマ訪問は今回が初めてである。

Sheri Prasso, RENDEZVOUS IN RANGOON, Business Week (Apr 13,1998), 1998