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社会

アウンサンスーチー 平和の代償
2000年8月13日配信 NBC・TVニュース「デイトライン」

アウンサンスーチー 平和の代償
2000年8月13日
NBC・TVニュース「デイトライン」
リポーター:ホダ・コトベ

アナウンサー:ロックフェラーセンターのスタジオからお送りします。ジェーン・ポーリーです。 「我に自由を、さもなくば死を」とはパトリック・ヘンリーの遺した名言です。果たしてどれだけの人がこの言葉を心の奥底から受け止めているでしょうか。これは自由を夢見る一人の非凡な女性の物語です。彼女は家族と一緒の生活を送るか、祖国の自由のためにたたかうかという信じがたい選択を強いられました。そして彼女はこの2つを同時に手にすることはできませんでした。その理由はこれからお送りするNBCの独占番組をご覧になってください。「デイトラインNBC」はTV局としては過去11年間で初めて、彼女のインタビューを秘密裏に収録することに成功しました。彼女は私たちに平和の尊さとその代償の高さとを思い起こさせてくれます。ホダ・コトベのリポートです。

ホダ・コトベ:強い日差しに照らされて光り輝くパゴダと、微笑をたたえた優しげな人々の住むこの地の通称は「黄金の国」です。ここはさながら焼けつくような激しい色彩の万華鏡であり、男性がスカートを履き、女性がたばこをくゆらすエキゾチックな世界なのです。これがビルマです。平穏そのもののように思われます。しかしこの黄金の国にはもう一つの面、恐怖の国という側面があるのです。

 「ビルマ国民の多くがいまだに強い恐怖を感じています。この恐怖を克服する必要があるのです。」アウンサンスーチーはこのように語ります。
 優美さを保ちながらも、強い意思の人であるアウンサンスーチーは、ビルマの希望の象徴であり、ビルマ民主化闘争に関わり続けるという悲痛な選択を強いられた、揺るぐことない勇気を秘めたイコンなのです。
 彼女は自らが払っている代償は、それに見合うものだと断言しました。そして「私は犠牲を払っているのではありません。一つの選択をしたのです。何かをするという選択をしたとき、その人が犠牲を払ったということはできません。というのは誰もその選択を強要していないからです」と語っています。

 国際社会は彼女をビルマの正当な指導者と認めています。しかしここビルマでは、彼女は檻のない監獄の囚われ人であり、米政府が「残虐で抑圧的」と批判する軍事政権の事実上の虜囚なのです。この政権は民間人を虐殺し、約千人の政治囚を投獄しているとして批判されています。
 ビルマの大学は、長年にわたって反政府運動の温床となっていました。このため大学の多くが長期にわたって閉鎖されてきました。この国ではほとんどの人にとってインターネットは非合法であり、携帯電話を所持しただけで投獄されねません。
 アウンサンスーチーは、ビルマではどんなことであれ政府の気に入らないことをする人間は、必ず標的にされるといいます。「正しいことをしても投獄されることがあります。たとえ法令を遵守していても、当局の側がそれを気に入らないと思えば、犯罪になるのです。」

 アウンサンスーチーへの公式な会見に成功した外国人ジャーナリストは一人もいません。これまでにも多くの記者がインタビューを試みましたが、当局の取調べを受け、裸にされて身体検査を受けた後に送還されてきました。このため番組の取材チームは、旅行者としてビルマに入国しました。彼女との接触はスパイ映画のワンシーンのようでした。暗号を用いた電話連絡、おとり車両、密かに持ち出した取材テープ。こうしたことが実際に行われました。
 チームが持ち込んだのは一般用のビデオカメラだけでしたが、それでも尾行と写真撮影の対象となり、そばにはつねに軍人がついてまわっていました。
 デイトラインはスーチーと秘密裏に会見しました。自宅の電話は不通になっており、彼女は郵便を受け取ることもできません。軍情報部が彼女を24時間の監視下に置いています。

 「ご覧のように、彼らは自宅前の道路を封鎖しています。庭の両側にはバリケードが築かれています。彼らに察知されずに外出することは不可能です。外に出るときには必ず2台の乗用車と2台のオートバイが後をつけてきます。彼らは私が出るのを外で待ち構えているのです。」
 しかし彼女はこうした日常的な監視によってナーバスになることはないと言います。「もしそれが彼らの狙いだとしたら、成功はしていませんね。」
 まさにこの揺るぎない精神的な強さこそが、多くのビルマ国民にとっての希望なのです。これは彼女が生まれた時から教えこまれてきた目的意識に基づくものです。彼女の父アウンサン将軍は現代ビルマの創始者で、民主主義の実現という広大な夢を抱いていましたが、スーチーがわずか2歳のときに暗殺されました。彼女の母は外交官であり、自分の子どもたちに教えたように、自らも公務に専念したことで知られています。

 こうした2人の間に生まれた女性は当初、政治には関わらない静かな生活を選択したように見えました。彼女は英国人の大学教授マイケル・アリス氏と恋に落ちました。2人は1972年に結婚し、英国に居を構えました。
 彼らの間には、アレクザンダーとキムという2人の男の子が生まれました。結婚後の16年間、彼女は妻として、また母として生活していました。
 「平和な日々でした。アカデミックな日々を過ごしていました。家族と一緒の生活がありました。望んだとおりのことが自由にできる本当に普通の生活を送っていました。」

 しかしある日、ビルマからの一本の電話が彼女の穏やかな生活を永久に変えてしまいました。彼女の母が卒中で倒れたとの知らせでした。彼女はビルマに戻り、国の騒然とした状況を目の当たりしました。彼女が帰国した1988年には、学生を中心とした数百万のビルマ人は、民主化を求めて街頭に繰り出していたのです。
 政権は激しい弾圧を行い、デモ隊に発砲しました。ユザナキン氏もデモに加わっていました。
 「政府が私たちにそんなことをするとは夢にも思いませんでした。ええ、国軍はつねに私たちの味方だと思っていましたから。」

 このとき市民数千人が殺害されたと言われています。スーチーは一連の反政府行動に心を奪われました。両親の教えが彼女の心に一挙に去来したのです。そして死者を追悼する演説に立つことで、妻であり母であったこの女性は政治指導者へと変身したのです。「彼女の姿を見ながら演説を聞いていて、涙が溢れてきました。私は叫びました。すぐにわかったからです。そうだ。そうなんだ。彼女こそが私たちとともに歩むことのできる人物だ。彼女こそ私たちが信頼できる人物だ、ということがわかったのです。」とユザナキン氏。
 その場に居合わせた大勢の人々がこの変化を目撃しました。スーチーの生活は一変してしまいました。仕事と学校があるため、彼女の家族はすぐに英国に帰国しなければなりませんでした。しかし彼女はビルマに留まると決めました。家族との別れがこれほどの期間に及ぶとは、彼女にとっても思いもよらなかったことでしょう。

 ビルマに残った彼女は、抵抗勢力の立ち上げに力を貸し、非常な危険の中に身を投じました。実話に基づいた映画「ラングーンを越えて」には、スーチーが国軍部隊とはじめて対峙したときの出来事が描かれています。スーチーは道の中央に毅然として立ち、引き返せとの命令を拒否しました。
 「ああいうときに恐怖を感じている暇などじっさいありませんよ。急いで考えなきゃいけませんからね。」
 隊長と部下は彼女と一行に銃を向けていましたが、彼女はそれを下ろさせたのです。しかし1989年に軍の指導部はスーチーに自宅軟禁を宣告しました。
 「私は国家の安定と治安を脅かすと見られていました。あるいは私の言葉にそういう効果があるということでした。」
 彼女は庭付きの自宅に監禁されました。部屋の前には衛視が常駐しました。
 「彼らは自宅の電話回線を切断しました。実際にハサミを持ってきて電話線を切断し、電話を持ち去ったのです。」

 国内からの圧力と国際社会からの監視によって、政府は総選挙の実施を余儀なくされました。スーチーの党(注:国民民主連盟、NLD)は、8割以上の支持を集めて勝利しました。しかし政権は選挙結果を無視し、彼女を軟禁しつづけました。自宅軟禁の下での歳月は気の遠くなるような遅さで流れたといいます。
 「私は家の外に出ることが一切許されていませんでした。誰一人として面会は許可されませんでした。外界から完全に遮断されていたのです。」

 彼女は栄養失調で髪が抜けてしまったそうです。ひるがえって英国では、夫のマイケル・アリス氏が息子たちの面倒を見ていました。近所に住み家族と親しかったピーター・キャリー氏は次のように話しています。「ある意味では明らかに、彼は完全な孤独のうちに生活していました。いたたまれない気持ちでしたよ。アリス家にいた温かい心の持ち主は、もうそこにはいなかったのですから。」
 母が軟禁されたとき、2人の息子はわずか12歳と16歳でした。
 「子どもたちが私のことで悲しむことや、私を必要としてくれることのないようにと願っていました。彼らの存在は私の支えになってくれています。でも、子どもたちはその代償を今も払っているのだと思います。」
 キャリー氏は、母親と遠く離れて暮らすことは子どもたちにとって大変なことだったという。「宿題のことでひどく悩んだときや、育ち盛りの少年が抱えるようなあらゆる問題を相談しようとしても、母親は遠くラングーンにいるのです。ほんとうに、これは酷なことですよ。」
 次男が母親との面会を許されましたが、彼女が息子に会うのは2年以上ぶりのことでした。
 このときスーチーは「彼が誰だかわからなかった」と言います。「通りですれ違ったら息子とは気づかないでしょうね。ほんの子どもと少年とでは、見かけが全然違いますからね。」
 彼女の家族は「デイトライン」の取材に対し、彼女にとってこの別離は非常につらいものであり、話せるような性質のものではないと答えています。

 しかしティンウィン氏は彼女には選択肢があったのだといいます。「彼女は子どものところに戻りたくなかったのです。」 ティンウィン氏はミャンマー連邦の駐米大使です。この「ミャンマー」とは軍事政権がビルマを指すときの呼称です。
 ティンウィン氏によれば、政府はスーチーに格別のはからいをしているとのことです。「彼女に加えられた制約は現行法に基づいたものです。彼女は楽な生活をしていますよ。監獄に入ることや独房に拘禁されるのに比べたら、今の状態は非常に楽なものであり、寛大な処置でもあります。彼女にとっては快適ですらあるでしょう。」

 1991年、自宅軟禁下のスーチーはノーベル平和賞を受賞しました。授賞式には息子のアレクザンダーが代理で出席しています。
 ビルマ政府は出国を促しましたが、彼女はそれを拒否しました。刑の執行は6年に及び、その間彼女は自宅に軟禁され続けました。軟禁期間中で家族にはたった3度の面会しか許されませんでした。
 「私はつねに祖国を最優先に考えた選択をしています。しかし国民は私的な生活と政治的信条との間で板ばさみになるべきではないと思います。」

 しかしそのすぐ後で、家族の悲劇はこうした彼女の選択をテストした。1995年、政権はついにスーチーの自宅軟禁を解除したのです。しかし彼女は首都ラングーンに留まりました。
 支持者に会うためラングーンを離れようとしたとき、軍は彼女の乗った車を足止めしました。彼女は6日間を橋の上で過ごし、引き返せとの命令に応じませんでした。しかし最終的には彼女も諦めて、ラングーンに戻りました。ラングーンでの彼女は当局をものともせず、自宅の庭越しに演説を行いました。天候に関わらず支持者が集まってきました。
 「演説に来た人の中には小さな袋を持ってくる人もいました。投獄されたときのために着替えが入っているのです。」
 聴衆もつねに軍情報部の監視下に置かれました。神経戦が行われていました。彼女の存在自体が政権にとってはトゲのようなものでした。

 しかし昨年、悲劇が起きました。夫のマイケル・アリス氏が前立腺ガンであることがわかったのです。キャリー氏は、長年にわたる離別が強いた残酷な結果だと言います。「彼は自分が担っていた荷の重さによって、とてもとても衰弱し、疲れきっていました。しかし彼は不屈の精神力でそれに耐えていたのです。」
 マイケル・アリス氏は重体でした。彼はビルマ行きのビザを申請しました。家族によれば、アリス氏は妻の腕の中で息絶えることを望んでいたのです。しかしビザ申請は却下されました。軍政は代わりにスーチーに対して、空路で夫の元に向かうよう促したのです。
 「政府はこの機会を捉えて私を国から追い出そうとしました。しかし誰の目にも明らかなことですが、もし彼らが私をいったん国から追い出したなら、二度と入国は許可されません。」

 結婚する以前にマイケル・アリス氏に宛てた手紙の中で予期されていた、身を切り裂くようなジレンマとはまさにこのことでした。手紙にはこうあります。「たった一つだけお願いがあるのです。国民が私を必要としたときには、私が彼らのもとで務めを果たせるよう力を貸してください。私はときどき、2人が幸福の絶頂にあるまさにその時に、そうした状況がやってきて私たちを引き裂くのではないかという不安に駆られ、胸が苦しくなります。」
 スーチーはこのときすでに自由とは代償を伴うものだということを理解していました。「私は国民と祖国に対する非常に強い義務感を持った母の手で育てられました。そのことにはつねに念頭にあったのです。」
 そして彼女は夫に二度と再会することはありませんでした。マイケル・アリス氏は1999年3月27日にこの世を去りました
 「私はこんなに素晴らしいと夫を持てたことに心から感謝しています。この幸せは誰にも奪うことはできません。」
 彼女は民主主義のために胸の張り裂けるような選択をしたのです。

 キャリー氏は「ビルマには自由が訪れるでしょう。そのときスーはビルマの大統領になるでしょう」と語ります。
 しかしこうした数々の体験がありながらも、スーチーは不満が自らの心を捉えることを許さないのです。
 「民主主義とは不完全なものです」と彼女は認める。「だからこそ民主主義のために働かなければならないのです。私の人生が思いのほか短いようなことがなければ、ビルマの民主化をこの目で見ることができると確信しています。」

 こうした見方に反対する人物もいます。ウィンティン氏はスーチーがビルマで権力を手にすることは決してないと言います。彼は嘲笑してこのように述べました。「彼女は主婦にすぎません。一主婦なんですよ。それ以上の人物ではありません。」

 一主婦、たしかにそうかもしれません。しかし彼女はノーベル平和賞を受賞し、世界の注目を集める主婦です。彼女の支持者が将来の国の指導者と認める一主婦なのです。
 ユザナキン氏は言います。「私たちには希望があります。私たちには未来があります。彼女を指導者に迎えるという未来があるのです。彼女はいまも私たちのリーダーです。」

 不気味なことに、ビルマ国営紙はスーチーが大逆罪で死刑か終身刑を宣告される可能性があると報じました。しかしその一方で彼女は、ビルマに変化をもたらすため米国政府が実施している経済制裁を支持するとの発言を行っていました。