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AI Index: ASA 16/024/2000
13 December 2000

ビルマ(ミャンマー):制度化された拷問


アムネスティ・インターナショナル

アムネスティ・インターナショナル報告書
2000年12月13日

【 報告書要約 】

 ビルマ(ミャンマー)では拷問や虐待が制度化されてきた。軍情報部員、刑務所の看守や警察官は、政治的理由による拘留者を尋問するときに、また、暴動を牽制するための手段として拷問や虐待を用いている。時と場所は異なっても、拷問のパターンは同じだ。拷問が国中で行われてきたことは、40年以上にもわたって報告されている。治安部隊は、情報を引き出したり、政治囚や少数民族の人々を罰したり、軍事政権に批判的な人々に恐怖を植え付ける手段として、拷問を用い続けている。

 ビルマ(ミャンマー)では、政治囚や少数民族が拷問や虐待をうけることが日常化しており、アムネスティ・インターナショナルは12年以上にもわたってその事実を報告してきた。しかしながら、ビルマ(ミャンマー)の軍政、国家平和発展評議会(SPDC)は、拷問は国内法に反していると主張し、一貫して拷問の事実を否定している。今も有効であるとされる1957年の刑法330および331は尋問中の拷問や虐待を禁じている。しかしアムネスティ・インターナショナルの知る限り、これらの条文に違反しているとして罰せられた者はいない。

 1700人に及ぶとされる政治囚は、拘禁の初期段階において、軍の情報局員が入れ替わり立ち代り行う尋問中に、すでに拷問の危険にさらされている。尋問は何時間も、時には何日間も続く。政治囚はまた判決後も、便箋の保持など、刑務所の恣意的なルールを破ったとして罰せられる場合に、拷問や虐待をうけやすい。さらに、刑事囚は当局によって労働キャンプでの砕石、道路建設などの労働に従事させられている。労働キャンプの状況は非常に過酷で、何百人、何千人もの囚人が虐待や過度の労働、また食糧や医療の欠如が原因で命を落としている。

 拷問の被害者は、軍情報部員による、初期尋問で一貫して用いられてきた特有の拷問方法を報告してきた。その方法には、皮がむけるまで向こう臑に鉄を当てて上下させる「鉄の道」、「窒息状態」や、身体のあらゆる部分への「電気ショック」などがある。軍情報部のセンターは、広範囲にわたって国中に張りめぐらされ、ここでは拷問が日常化している。政治的な理由によって逮捕されると、通常、まずこれらのセンターに連れて行かれる。判決を受けた後、彼らは、ビルマ(ミャンマー)にある43の刑務所のうち、20の刑務所のいずれかに移される。状態は異なるが、囚人はいずれの刑務所においても残酷で非人道的、品位を落とすような処遇をうけている。

 ビルマ(ミャンマー)国軍によって、武装反政府勢力の鎮圧のための作戦が展開されている地域に住んでいる少数民族も、拷問や虐待の危険にさらされている。武装反政府勢力が活発に活動している地域の少数民族の人々は、武装グループの居場所に関する情報を引き出す目的で国軍によって連れ去られ、尋問され、拷問をうけている。さらに、彼らは、国軍の荷役人(ポーター)として一度に何日も、あるいは何週間も、重い必需品を運ばされる過程で、拷問や虐待に直面する。軍の縦列についていけなくなると、兵士たちに激しく殴打され、蹴られることがしばしばだ。反乱鎮圧作戦の敷かれた地域の少数民族の女性たちは、軍のためのポーターとして連れて行かれると、レイプされる危険がある。

 拷問や、他の残酷で非人道的な、品位をおとしめるような処遇や処罰は、国際的な人権法や人道法において全世界的に非難されている。アムネスティ・インターナショナルは、ビルマ(ミャンマー)において拷問が廃止されるためには、SPDCが、全ての治安部隊に対して明確に拷問の中止を命令し、拷問や虐待の申し立てに関して迅速で公平な調査を開始し、責任者を裁判にかけ、また「拷問及びその他の残虐、非人道的又は屈辱的な処遇もしくは刑罰を禁止する条約」に加盟することが必要であると考えている。


はじめに

 ビルマ(ミャンマー)では拷問や虐待が制度化されてきた。軍の情報員、刑務所の看守や警察官は、政治的理由による拘留者を尋問するときに、また、反乱を牽制するための手段として拷問や虐待を用いている。時と場所は異なっても、拷問のパターンは同じだ。拷問が国中で行われてきたことは、40年以上にもわたって報告されている。治安部隊は、情報を引き出し、政治囚や少数民族の人々を罰し、軍事政権に批判的な人々に恐怖を植え付ける手段として、拷問を用い続けている。

 ビルマ(ミャンマー)では、政治囚や少数民族が拷問や虐待をうけることが日常化し、アムネスティ・インターナショナルは12年以上にもわたってその事実を報告してきた。しかしながら、ビルマの軍政、国家平和発展評議会(SPDC)は、拷問は国内法に反していると主張し、一貫して拷問の事実を否定している。今も有効であるとされる1957年の刑法330および331は尋問中の拷問や虐待を禁じている。しかし、アムネスティ・インターナショナルの知る限り、これらの条文に違反したとして罰せられた者はいない。

 1990年5月の選挙で国民民主連盟(NLD:National League for Democracy)が80%以上の議席を獲得して以来、過去10余年、軍政は一連のNLDへの取締りを展開してきた。NLDは政権を担うことを許されず、何百人もの党員は平和的な政治活動のために投獄され、何千人もの党員が離党を迫られてきた。さらにSPDCは嫌がらせや監視、党の事務所の閉鎖など様々なコントロールを、反対勢力の牽制や人々に恐怖を与え続けるために行っている。今日ビルマ(ミャンマー)では表現や結社の自由はほとんど完全に否定されている。2000年には平和的な反政府勢力にさらなる弾圧が加えられた。現在も、アウンサンスーチーと8人のNLD中央執行委員会(Central Executive Committee)のメンバーは、首都ヤンゴンの郊外を訪れようとした2000年9月以来、軟禁状態におかれている。NLDの副議長、ティンウー氏も、反政府行動のために捕らわれた何百もの人々とともに、現在も軍の拘置所に拘留されている。

 SPDCは、何百人もの学生を反政府的な行動に加わったことを理由に逮捕してきた。ビルマ(ミャンマー)では、伝統的に政治的行動は学生が先導してきたが、1988年の民主化運動もまた学生によって導かれた。88年9月に軍が再び政権を掌握した後、何千という若い活動家が近隣諸国に逃れた一方で、国内で闘争を続けようとした者もいる。彼らはNLD党員や他の野党の党員と類似したパターンで逮捕されることになった。最近では、96年12月にデモを企てた多数の学生が逮捕されている。民主化運動の10周年記念の準備をしていた多数の学生が、98年半ばに逮捕された例もある。SPDCは反政府勢力を壊滅する目的で、2000年に入っても学生や若者の逮捕を続けている。

 1700人に及ぶとされる政治囚は、拘禁の初期段階において、軍の情報員が入れ替わり立ち代り行う尋問中に、すでに拷問の危険にさらされている。尋問は何時間も、時には何日間も続く。また政治囚は判決後も、便箋の保持などのような、刑務所の恣意的なルールを破ったとして罰せられる場合に、拷問や虐待をうけやすい。さらに、刑事囚は当局によって労働キャンプでの砕石、道路建設などの労働に従事させられている。労働キャンプの状況は非常に厳しく、何百人、何千人もの囚人が虐待や過度の労働、また食糧や医療の欠如が原因で命を落としてきた。

 拷問被害者は軍の情報員が、初期の尋問で一貫して用いられてきた特有の拷問方法を報告している。その方法には皮がむけるまで向こう臑に鉄を当てて上下させる「鉄の道」、「窒息状態」、身体のあらゆる部分への「電気ショック」などがある。軍情報部センターは広範囲に国中に張りめぐらされ、こうした拷問が一般的になっている。政治的な理由によって拘置されている人々が逮捕されると、彼らは通常、まずこうしたセンターに連れて行かれる。判決を受けた後、彼らは普通、ビルマ(ミャンマー)にある43刑務所の中の、20のうちのいずれかに移される。状態は異なるが、いずれの刑務所においても囚人は残酷で非人道的、品位を落とすような処遇をうけている。刑務所の看守は、ほとんど換気のない、また光も届かない小さなレンガ房に、数週間か数ヶ月間も拘留する「タイクペイク(Taik Peik)」や、様々な困難な姿勢を長時間強いる「ポンサン(ponsan)」(ビルマ語でモデルを意味する)を、囚人を処罰する方法として用いている。

 ビルマ(ミャンマー)国軍によって、反乱鎮圧のための作戦が展開されている地域に住んでいる少数民族の人々も、拷問や虐待の危険にさらされている。武装反政府勢力が活発に活動している地域の少数民族の人々は、武装グループの居場所に関する情報を引き出すために、国軍によって連れ去られ、尋問され、拷問をうけている。さらに、彼らは、軍の荷役人(ポーター)として一度に何日も、時には何週間も、重い軍需品を運ばされる過程で、拷問や虐待に直面する。彼らは、軍の縦列についていけなくなると、兵士たちに激しく殴打され、蹴られることがしばしばだ。反乱鎮圧作戦のしかれた地域の、少数民族の女性たちは、軍のポーターとして連れて行かれると、レイプされる危険がある。

 1988年の民主化運動への軍の暴力的な弾圧が始まって以来、少なくとも43人の政治囚が拘留中に命を落としているが、実際の数はこれよりもかなり多いと考えられる。拷問や虐待、刑務所内の厳しい状態、不十分な医療、衛生、栄養状態が、特に高齢者や慢性的な病にさいなまれている囚人に、拘留中の死をもたらしている。逮捕時には良好な健康状態にある囚人の中にも、拷問によって死に至らしめられている者がいる。92年6月、60代のラカイン州出身のイスラム教徒でNLDメンバー、モハメド・イリアス氏は爆弾による爆破事件に関与したとして逮捕された。アムネスティ・インターナショナルはこれが冤罪であると見ている。彼は外部との接触を一切断たれた状態で拘禁され、激しく殴打された末に運ばれた病院で息絶えた。当局は彼の死が「重症の胃腸病」に因るものであるとしているが、当時彼の健康状態は良好であったことも伝えられている。

 最近では、38歳のNLD党員、アウン・チョウ・モー氏が、98年5月にタラワディ(Tharawaddy)刑務所で、拷問や虐待を受けて拘留中に死亡している。彼はNLDに対する大規模な取締りが進められる中で、89年7月にインセイン刑務所に投獄され、91年にタラワディ刑務所に移された。98年5月上旬、彼と他の6人の囚人とともに、刑期を終えた囚人を投獄し続けている刑務所当局に抗議して、ハンガーストライキを開始した。看守は彼らの抗議を無視し、手錠をかけ、また水を与えなかった。さらに長時間、45度にひざを曲げた状態でつま先立ちの姿勢を強要した。他の6人の囚人は意識を失ったが、アウン・チョウ・モー氏は糖分を摂ることを拒み、ハンガーストライキを続けた。伝えられるところでは、彼は一時間にもわたって激しく殴打され、その日のうちに亡くなったという。

 全ての政治囚は拷問の危険にさらされる。イギリスとオーストラリアの二重国籍を持つジェームズ・モーズレーは長期の単独拘留に対する平和的な抗議のために拷問をうけた。99年8月、彼はタイ国境に近いタチレクで、ビルマ(ミャンマー)の平和的な政治変革を訴えるちらしを配布したとして逮捕された。99年9月、彼は17年の禁錮刑を言い渡され、シャン州のケントゥン(Kengtung)刑務所の独房に拘留された。彼は前年の98年にも、同じ理由で、ほぼ3ヶ月にわたって拘禁され、モン州のモールメイン(Mawlamyine)での初期尋問では激しく殴打されている。その時は、彼は強制的に国外に追放されている。

 2000年9月、イギリスの領事官が、ジェームズ・モーズレー氏を訪問した際、彼の鼻はひどく折れ、目の辺りが黒くなっていたと報告している。また、モーズレー氏は「独房での拘留は非人道的」、「全ての政治囚を解放せよ」という言葉を独房の壁に記していたという。彼は、9月21日からの3日間続けて、3回にわたって15人の刑務所看守に殴打されたと伝えられている。また、15人のうち5人は1メートル程度の長さの木刀を持っていたという。その後、彼はほとんど食べられないような粗末な食事を与えられ、本も没収された。イギリス政府はSPDCに対し強い抗議の姿勢を示したが、軍政は、怪我は彼が自分で負ったのだと主張し、拷問や虐待の事実を否定し続けた。2000年10月20日、彼は釈放され、すぐにイギリスに帰国した。

 同国の、90年代の最も肯定的な人権擁護における発展は、99年5月に国際赤十字委員会(ICRC)がSPDCとの間で結んだ、ビルマ(ミャンマー)の刑務所訪問に関する合意である。ICRCの規則では、ICRCは囚人を個別に訪問し、全ての刑務所を何度でも訪問することができる。2000年4月、ICRCは25の刑務所の3万人の囚人を訪問したと発表した。そのうち1450人が「治安のための拘留者」すなわち政治囚であった。ICRCは、2000年3月にも、刑務所の強制労働キャンプへの訪問を始めている。しかしながらアムネスティ・インターナショナルの知る限りでは、ICRCは、尋問初期の最も頻繁に拷問が起こりがちな軍情報部の拘置所への訪問は行っていない。


ビルマ(ミャンマー)での拷問に関する歴史

 26年間続いていた軍事政権に対しての大規模な抗議行動が起こった88年以来、ビルマ(ミャンマー)では拷問がさらに多用されている。また、反政府活動を理由に何千もの人々が逮捕されてきた。アムネスティ・インターナショナルは、現在少なくとも1700人の政治囚がミャンマーの刑務所に投獄されているとみている。過去12年間の政治囚の増加とともに、拷問や虐待も増えてきた。しかしながら、拷問は、88年以前から、情報を引き出し、政治囚を処罰するための道具として日常的に使用されていた。ネ・ウィン将軍が62年のクーデターで民主的に選出された政権をくつがえし、ビルマ社会主義計画党(BSPP)を設立して以降、活発に政府に反対した人々は、逮捕や拘留中の拷問の危険にさらされることになった。

 元政治囚は、68年11月に逮捕されたときの軍情報部下の苦しい経験をこう述べている。彼は初期の尋問中、足かせをはめられ、両手を縄で縛られた状態で殴打され、蹴られた。つま先に電極をあてられ、強い電気ショックを繰り返し加えられた。電気ショックは、彼が失神して意識を失うまで強さを増加していた。その後、彼は裁判無しにほぼ4年間拘置された。

 全国的な詩人、タキン・コドゥ・フミン(Thakin Kodaw Hmine)への敬意を表明した76年の学生運動に参加し逮捕された政治囚も、拷問をうけた。学生たちはラングーン大学を練り歩き、彼の生誕記念を祝った。しかし5人以上の公的な集会を禁じた法令144を侵したとして、後に軍に追い散らされることになった。法令144は、74年12月、BSPP政府がウタント前国連事務総長の国葬を行わなかったことから起こった学生蜂起をうけ、制定された。政治囚は76年5月からネウィン将軍に恩赦を与えられる80年5月まで、裁判もなく拘留された。彼は、始めの一週間に耐えた尋問中の拷問についてアムネスティ・インターナショナルに語った。88年の民主化運動の後、軍情報部がとった拷問の方法は、以下に記したものと同様のテクニックである。

 逮捕された当初、彼は後ろ手に手錠をかけられ、拘留場所を知られないように頭部に袋をかぶされていた。軍の情報員は入れ替わり立ち代り一晩中尋問を続けた。情報を暴露させるために、彼は、綱で縛られた両手を天井から吊るされ回転させられた。これは「ヘリコプター」と呼ばれる。また、つま先立ちの状態で半分かがんだ姿勢を作る「オートバイ」も強いられた。その姿勢をどのくらい続けるのかと彼がたずねると、軍の情報員は「お前が慈悲を求めるまでだ、多分10分から15分というところだろう。」と応じた。尋問は丸一ヶ月にも及んだ。その間彼は独房に拘留された。さらにまた家族、医療従事者や弁護士の訪問が禁じられ、外部との接触は一切絶たれた。

 ネウィン将軍の率いる軍事政権が、中央ビルマ平原を囲む地域で非常に多数の武装した少数民族の勢力と戦闘を繰り広げていた当時、ビルマでは反政府勢力が抑圧されていた。反乱抑制作戦の一環として軍隊は地方をパトロールし、日常的に少数民族の村々に足を踏み入れた。反政府勢力との接触を疑われた民間人は軍による拷問の危険にさらされた。84年に反政府勢力への対抗作戦は激しさを増し、多数の民間人が隣国タイに逃れた。彼らは拷問や虐待を含むあらゆる人権侵害を報告している。難民たちは軍によって地下の穴倉に拘留され、拷問をうけた。中央ビルマ(ミャンマー)で軍の情報員が用いた「鉄の道」や「窒息状態」にさせる拷問方法は、少数民族出身の民間人にも用いられた。また、ポーターに徴用された村人たちは極度に疲労し倒れるまで歩かされ、軍の分隊についていけなくなると激しく殴打された。

 激しい弾圧をみることになった大衆民主化運動を、学生が先導しはじめた88年3月上旬以降、政治囚への拷問や虐待はエスカレートした。その後、88年の民主化運動においては、治安部隊によって3000人が殺害されたと推定されている。軍は、88年9月、新政府、国家法秩序回復評議会(SLORC、SPDCの前身)を設立。ネウィン将軍は辞任し、戒厳令がしかれた。同時に、当局は90年5月の総選挙の実施することを表明した。選挙の準備段階として政党の活動が活発化するにつれ、政府は逮捕を拡大し、89年7月の大規模な取り締まりに至る。この時、国民民主連盟(NLD)の指導者であるアウンサンスーチーをはじめとし、何百人もの逮捕者がでた。学生たちも逮捕や投獄の標的になった。SPDCの反政府活動を防止するさらなる試みによって、88年初頭以来、大学はほとんど閉鎖されてきている。


1990年代の拷問

 「裁判で我々はうけてきた拷問の事実を訴えた。それに対し裁判官は、『それは通常のことだ。私はそれを記録しておくつもりだが、助けにはならないだろう』と応じた。裁判官は同情的で、後に彼は私にこう言った。『私にできることは何もない。ただ軍情報部から与えられたものを読むだけだ』と。」

 ビルマ(ミャンマー)政府当局は、何十年もの間、国中で同じ拷問方法をとってきた。元政治囚たちは、拘置所では軍情報部員に、刑務所では看守に、反政府勢力の反乱への対抗作戦が展開されている地方では軍隊によって繰り返し用いられている一般的な方法を、短縮した言葉で呼んでいる。これらは、ビルマ(ミャンマー)当局の常套的な拷問方法として一般化されたもので、「オートバイ」、「ヘリコプター」、「鉄の道」などがある。他にも、困難な姿勢を長時間にわたって課す「ポンサン(ビルマ語でモデルという意味)」なども頻繁に用いられた。ポンサンはしばしば殴打を伴っている。

 拷問の使用を告発するビルマ(ミャンマー)市民は、投獄や彼ら自身への拷問の危険を覚悟しなければならない。96年6月13日、マウン・サン・フライン氏(エヴァック、またはティン・フラインという名前でも知られる)は、政治囚への拷問および虐待についての事実を外国人ジャーナリストに口外したとして逮捕され、8月に7年の刑を言い渡された。彼は96年4月に、ボディガードを務めていたアウンサンスーチーの邸宅の敷地内で、カメラを伴ったインタビューをうけた。ビルマ(ミャンマー)国営メディアは、彼が外国人ジャーナリストに拷問やその他の「偽りの出来事」などの「でっちあげの情報」を提供したと報じた。アムネスティ・インターナショナルはマウン・サン・フラインが、ビルマ(ミャンマー)において人権を擁護しようおして囚われた良心の囚人であるとみている。

 90年9月、ビルマ(ミャンマー)最大のインセイン刑務所で何十人もの囚人たちが、アウンサンスーチーの率いる野党、NLDへの政権移譲を求めてハンガーストライキを行った。90年5月の選挙ではNLDが勝利したが、SLORCは議会を召集することを拒んだばかりか、代わりに多数のNLD指導者を逮捕していた。彼らの中には、ゴムパイプで背中を40回にもわたって殴られたリーダーを含め、激しく殴打された者がいた。このリーダーは殴打されている間、看守のブーツによって頭を床に押し付けられていた。40人以上の囚人が治療を必要とする傷害を負い、6人が殴打によって死亡したと伝えられている。政治囚たちの語ったところでは、刑務所の看守は、囚人たちの叫び声をかき消すために大きな音で歌謡曲をかけている。拷問が行われているという報告に対して、SLORCは「国際的に認知された警棒」が用いられていること、たった三人の囚人が「軽い怪我」を負っているだけであると主張している。

 多数の政治囚グループへの拷問および虐待は、95年11月半ばにも起こっている。インセイン刑務所の刑務所当局は、29人の囚人たちに、国連に刑務所の状況を記した手紙を送ろうとしていたことへの罰として、長期にわたる激しい虐待を行った。彼らはまた、ラジオの所持と囚人が作成したニュースレターの配布に関して尋問をうけた。全ての者が、ほとんど換気されず、光の届かない小さな房での拘留「タイクペイク」を強いられた。このタイクペイクの間、外に出ることが許されるのは、シャワーを浴びるための一日にたった10分間のみだった。8×10フィートほどの小さな房に、4、5人が拘留されていた。

 彼らは数ヶ月にわたってこれらの房に拘留された。そのうち21人が、インセイン刑務所内の法廷でさらなる判決を言い渡された。裁判の約4ヶ月後、選挙で国会議員に選出されたNLD党員、フラ・タン(Hla Than)氏は拘留中に亡くなった。死亡診断書には、彼の死因が肺結核であること、またHIVの検査をうけた経歴があることが記されている。しかしながら、獄中でうけた虐待が彼に死を招いたとの疑いもある。

 アムネスティ・インターナショナルが面接を行ったある政治囚は、ハンガーストライキの後、「タイクペイク」を8ヶ月にもわたって強いられた。96年8月、彼は他の政治囚たちとともにタラワディ(Tharawaddy)刑務所へと移された。一ヶ月以上はずされなかった足かせは、鉄製で、足の間から胴の周りをめぐる鎖につながっていた。彼は、ハンマーと釘で足かせを付けられた時、釘が時々向こう脛を突き刺したと語った。


個々の事例

事例1

 2000年初め、アムネスティ・インターナショナルは90年代に拷問や、長期にわたって残酷で非人道的、品位をおとしめるような扱いをうけた、何人かの政治囚を面接した。その中の一人、ビルマ文学の学位を持つ35歳の元良心の囚人は、90年代の平和的な反政府活動を理由に二度、投獄された。彼は二度目の投獄の94年7月、9日間もひどい環境の警察の留置所に置かれ、その後裁判もなく一年にわたってインセイン刑務所に拘禁された。5年の刑を言い渡された後も、そのままインセインに拘禁された。

 96年7月6日、頭部を覆われ、手錠をされた状態でインセイン刑務所の房に拘置されていた彼は、同刑務所敷地内の法廷に連れて行かれた。一日中尋問をうけ、62年7月7日に起こった、軍によるヤンゴン学生連合の破壊を記念する計画について厳しく非難された。尋問中彼はうつぶせに地面に寝かされた。尋問者は彼を踏みつけ、直径1インチのゴム製コードで鞭打ちした。「私が叫ばないと、彼らは私が頑固であるとののしり、叫びをあげると、弱いとののしった。」と彼は語った。

 150回も鞭打たれた後、彼は意識を失った。目覚めると、一人用の監禁房で鎖につながれていた。その後の12日間、日に二度、一回一時間にわたって様々な「ポンサン」の姿勢を強いられた。彼は、胴をめぐって足の間で鉄の棒に結ばれている鎖につながれたまま「ポンサン」の日課を凌がなければならなかった。彼はアムネスティ・インターナショナルに、手首、額、腕やひざに傷やあざがあることを語った。また彼は鎖につながれたまま「かえるのような跳躍」も強いられた。彼はついにハンガーストライキを行うと迫り、その後、鎖は取り除かれた。

 97年11月、彼は釈放までの間身を置くことになるタラワディ(Tharawaddy)刑務所に移された。彼の所有物は没収され、97年11月から98年5月までの間、独房に監禁されていた。98年10月に刑期を終えて釈放されたものの、国外に逃れるまで厳しい監視下におかれた。彼はアムネスティに、刑務所でうけた扱いによって肉体的な労働に従事することができなくなり、長時間座ったままの姿勢、立ったままの姿勢を維持することができなくなったと語った。

事例2

 89年10月から98年5月まで投獄されていた元良心の囚人の軍人は、投獄中に少なくとも三度の拷問をうけた。軍にいた当時、88年の民主化運動に加わり、その後身を隠していたが、第6軍情報部によってついに逮捕された。彼は暗い部屋で壁に手錠をつながれたまま最初の一ヶ月を過ごした。

 12年間の禁固刑の判決をうけた後、彼はインセイン刑務所に身柄を移された。98年末、レンガを作っているときに政治囚が殴られたことをうけて、彼は他の政治囚たちとともに労働を拒み、罰せられた。囚人たちは通常監禁されている間、刑務所農園での労働や、レンガ作りのような労働に従事する。「タイクペイク」の房に入れられた彼は、一ヶ月単位で一日に二度、二時間にわたって殴打され、かつ様々な「ポンサン」の姿勢を強いられた。この期間、彼も胴をめぐって足の間で鉄の棒に結ばれている鎖につながれたままであった。

 彼はまた、90年9月のインセイン刑務所でのハンガーストライキに参加し、その後三日間水を与えられなかった。彼らは頭部を覆われて木刀で殴打され、それぞれの房へと引きずり戻された。91年11月、彼は残りの刑期を修めることになるタラワディ(Tharawaddy)刑務所に移された。そこでは、刑事囚による刑務所長の暗殺を共謀した罪を問われ、彼と11人の囚人たちは殴打され、92年2月から93年4月まで14ヶ月にわたって独房に監禁された。

 さらなる処罰として、彼らは一年の刑期を追加され、一年間鎖につながれた。94年6月、彼は刑務所農園で働き始め、レンガも作った。96年にSLORCが導入した刑務所の「独立独歩」プログラムによって、刑務所の指揮官は、囚人の労働によってお金を稼ぎ出さなければならなくなった。それをうけて重労働の要求は増し、多くの囚人たちが重病を患うようになった。彼は、目の周りを殴打されたことが原因で視界がぼやけるようになり、刑務所当局に働くことができなくなったと伝えた。その後、刑務所病院の独房に監禁されることになったが、何の治療もうけられなかった。彼は、98年5月にやっと釈放された。

事例3

 35歳の元大学生の政治囚もまたタラワディ(Tharawaddy)刑務所で拷問をうけた。彼は88年11月の民主化運動において、全国的なゼネスト行動に加わったとして逮捕された。逮捕後は第70歩兵隊と警察によって、ヤンゴン近郊のダラ川沿岸にある軍の前哨地点に連行された。軍人に銃をつきつけられ、質問をうけた。毎晩、気を失うまで銃の台尻で殴打され、軍靴で蹴られた。こういった処遇の結果、彼は左耳の聴力を失った。警察の留置場に二週間拘置された後、インセイン刑務所の第五ビルに移された。そこでは尋問中、頭部を覆われ、殴打された。

 89年10月に10年の刑を言い渡され、インセイン刑務所に拘置されていた彼は、91年11月にタラワディ(Tharawaddy)刑務所に移された。彼と他の政治囚たちは、刑務所内に蔓延していた赤痢への治療が施されていないと不満を訴えた。この抗議への処罰として、彼は鎖につながれ、22日間もの間、朝と夕方に一度ずつ、一日に二時間、「ポンサン」の姿勢を強いられた。毛布やマットの使用は許されず、寒い季節もコンクリートの床に眠らなければならなかった。そしてトイレの設備すらなかった。彼は治療をうけることなしに、徐々に赤痢からは回復した。しかし95年の半ば、吐血するようになる。薬は家族から受け取るほかなかった。

 97年2月、彼はついに釈放された。彼はアムネスティにこう語っている。「私はあなた方に人々の直面している状況を理解してほしい。私たちの苦しみは釈放によって終わりを迎えるわけではない。私たちは軍の100の目に見張られていて、何もできないのだから。」

事例4

 23歳の学生活動家の元政治囚は、90年代に二度逮捕された。最初の逮捕は90年で、14歳のときであった。25日間拘置されたにすぎなかったが、結核にかかり、治療をうけることはできなかった。94年7月、ヤンゴンでの政府への小規模な平和的抗議に参加したことと、全ビルマ学生組合連盟(ABFSU)のちらしやNLDの旗を所有していたために、仲間と共に再び逮捕された。後に5年の刑の判決が下され、98年8月に釈放された。

 逮捕後、彼は、多数の逮捕者が出た場合にしばしば拘置所として使用されるヤンゴンのタムウェ(Tamwe)区のケイカサン(Kyeikasan)スタジアムに連行された。そこで長時間鋭い石の上にひざまずくことを強いられた。かかとの下に画びょうが置かれた状態で、長時間にわたって爪先立ちを強いられたこともあった。頭部にはビニール袋をかぶされていたため、呼吸は極度に困難であった。一日拷問と尋問をうけた後、軍情報部第12支部に連行された。そこでは、「オートバイ」や「飛行機」と呼ばれる拷問を受け、身体を回転させられたりした。また、尋問中は絶え間なく、蹴られ、殴打された。軍情報部第12支部に拘置されたうちの2週間、彼はローテーションの組まれた軍情報部の間断ない尋問を受けた。

 彼はその状況をこう記している。

 「私は何度も倒れました。立ち続けていたことによって私の足はひどく膨らんでいました。軍情報部員自身の間で口論もありました。彼らは、私が拷問の結果死ぬのではないかと恐れていたんです。そのとき私の身体はあまりよい状態ではありませんでした。結核の薬も服用していました。二週間後、彼らはようやく私にシャワーを浴びることを許してくれました。今では、もう咳き込むことはなくなりましたが、まだ冬になると胸に痛みをおぼえます。」

 彼はインセイン刑務所に移され、4ヶ月間非常に混みいった状態で拘置された。このときは頻繁に熱に苦しんだ。十分な空間がなかったため、囚人たちはわきを下にして眠らなければならなかった。彼はビルマ(ミャンマー)で最も状況がひどいといわれるマンダレー管区のミンヂャン(Myingyan)刑務所に移された。そこで彼と他の囚人たちは、ゴム製の警棒で少なくとも200回、「理由もなく」殴打された。倒れるたびに起こされ、殴打は続いた。「ポンサン」も強要された。彼の健康状態は回復しないままであったが、刑務所病院に行くことは許されず、パラセタモール(paracetamol)を受け取っただけだった。

 95年の9月初めから7ヵ月半、彼は刑務所外に情報を伝えようとしたとして鎖につながれた。96年11月、彼は再び水の不足と栄養価の低い食事について不平をもらした。4人の刑事囚がゴムの棒で彼の身体をうつように命令された。彼は一ヶ月間シャワーを浴びることを許されなかった。98年の釈放後、彼は治療をうけられるようになった。しかし彼はアムネスティに、経験した拷問の明らかな後遺症に未だに苦しんでいると話している。医者は彼がとても素早いまばたきをすることが、独房監禁を強いられていたとき、長時間にわたって白光にさらされていたこと、および栄養失調のためであると話した。

 ビルマ(ミャンマー)当局は拷問や虐待を、処罰や政治囚から情報を引き出す手段として用い続けている。これらは大量逮捕、多用されている監視、嫌がらせ、NLDや他の平和的な反政府グループへの抑圧を含む多様な政治的弾圧の一部である。ビルマ国連特使は、第55回国連総会への中間報告書の中でこう記している。

 「政治的拘留者への拷問や、その他の非人道的な行為は日常化しており、特に初期尋問中には頻繁に行われる。また既決囚もまた、拷問やその他の残酷で非人道的、品位をおとしめるような処遇をうけやすいと報告されている。」


拘禁施設と刑務所

 拷問や虐待は、国中の警察の留置所、軍情報部本部、軍の前哨基地、刑務所、労働キャンプなどあらゆる拘禁施設で起こっている。アムネスティ・インターナショナルに提供される情報のほとんどが政治囚への処遇を懸念するものであるが、政治囚、刑事囚の両方が同様の処遇をうけている。刑事囚も労働キャンプに連行され、重い荷を運ぶポーターとして働くことを強いられる。このような強制労働は、武装少数民族反政府グループに対し対抗作戦を展開している地域で行われており、軍は定期的にパトロールをしている。

 アムネスティ・インターナショナルの知るところでは、政治囚は通常労働キャンプには連行されない。元良心の囚人が述べているように、「政治囚は労働人員を組織化する」からだ。96年1月に逮捕され、いまだに7年の刑に服している、コメディアンで良心の囚人のパ・パ・レイとル・ゾウは例外である。彼らは1月4日のビルマ独立記念日に、アウンサンスーチーの自宅で開かれたNLDの祝典で公演した後に逮捕された。同年3月に判決をうけた後、数ヶ月間は道路建設のために岩を砕く労働に従事させられた。2人ともかなり体重が減少し、健康を害した。その後、パ・パ・レイは北部に位置するカチン州のミッチーナ(Myithkyina)刑務所に移され、健康状態は改善された。従兄弟のル・ゾウはザガイン管区のカタ(Katha)刑務所に置かれていると考えられている。

 労働キャンプの囚人たちは足の間を鉄の棒と鎖につながれ、不十分な食糧と治療で、長時間にわたって採石場で岩を砕き、道路を建設するなどの労働を強いられている。何百人もの囚人が亡くなったとされている。女性も女性専用の労働キャンプに連行される。元良心の囚人の女性は、90年代初頭、インセイン刑務所に収容されていた。彼女は、マンダレー管区のメイミョー近郊にあるフトンボー(Htone Bo)採石場と、バゴー管区のピィンマナー(Pyinmana)近郊にあるイェジン(Yezin)採石場の2ヶ所のキャンプに連行された。彼女によれば、女性の刑事囚は、労働キャンプで過ごした期間分の刑期を減らされたものの、自発的な労働ではなかったという。これらの女性だけの労働キャンプは未だに存続している。

 SPDCは囚人に労働を課していることを否定せず、次のように述べている。

 「『犯罪の代償は労働によって支払われるべきだ』というモットーの下で、囚人たちは社会への償いを採石場や道路建設、土地再開発での労働で支払う義務があり、したがって国家建設活動に貢献しているのだ。これによって地域発展に貢献し、賃金を稼ぎ、よりよい生活をすることができるとともに、刑期を減らすことも可能だ。」

 ビルマ(ミャンマー)には43の刑務所がある。これらは、長期囚や死刑囚が置かれる最大規模の刑務所「A」、中間の刑期の判決をうけた囚人を収容する「B」、および5年以下の刑期の囚人が服役する「C」の3つに分けられる。元政治囚によれば、以前は全ての政治囚は「A」のカテゴリーの刑務所にのみ収容されていたが、現在では3つのどのカテゴリーの刑務所にも収容されている。タラワディ(Tharawaddy)刑務所とマンダレー管区のミンジャン(Myingyan)刑務所の環境が特に厳しいとされるが、刑務所の状態は多様である。元囚人はミンジャン刑務所で起こったことをこう説明した。

 「91年4月以前は、そこは何ということはない刑務所だったんですが、政治囚たちが組織化し始めたんです。そしたら、政治囚に対しての対応が良すぎたという理由で、刑務所長らはルール違反で逮捕され、3年間投獄されたんですよ。」

 彼はまた、新しい刑務所長は、全ての看守に対して、政治囚に対しては死ぬまでの殴打しても良いと指示したと語ってくれた。
 大多数の刑務所は、食糧、水、衛生、そして医療を欠いた厳しい状態にある。囚人たちは隔週に許された面会時に、家族からの食糧や薬の差し入れに頼るほかない。政治囚が直面する困難は、家族や住んでいた家から離れた遠くの刑務所に移されることである。これによって家族の面会や必要な援助をうけることが難しくなる。90年代にかなりの数の政治囚がこのような形で移送されてきた。政治囚はこの移送が処罰の一環で行われているとみている。例えば97年11月には100人の政治囚がインセイン刑務所からタラワディ(Tharawaddy)、タイェット(Thayet)やマンダレー刑務所に移されている。99年4月から5月にかけても、何百人もの政治囚がインセイン刑務所から、遠く離れた刑務所へと移されている。


少数民族への拷問と虐待

 少数民族への拷問や虐待と、政治囚たちに対して用いられている処罰は類似しているが、重要な違いがある。政治囚は通常、軍の諜報機関、警察署、刑務所または「政府のゲストハウス」など何らかの政府施設に収容される。一方、少数民族は、軍隊が反政府勢力への対抗作戦の一環として村々を訪れたり、ポーターとして徴用されている時に拷問や虐待をうける。しかしながら、両者はともに、拳や銃の台尻による激しい殴打、および軍靴による足蹴りなどに特徴付けられ、いずれも類似した拷問方法である

 少数民族への拷問や虐待は、人口の3分の1を占める非ビルマ民族への迫害の中で起きている。少数民族はしばしば経済的、社会的、文化的権利を大幅に奪われている。SPDCが、少数民族の独自の言語を話す権利や、独自の宗教を信仰する権利を否定する「ビルマ化プログラム」をとっているとの指摘もある。東部に居住するモンやシャンの少数民族は、SPDCが学校でもモン語やシャン語を教えることを認めていないと報告している。大部分がキリスト教徒であるチンのグループは、ビルマ(ミャンマー)当局が、ビルマ民族の大多数が信仰する仏教へ、強制的に改宗させようとしているという証拠を提示している。チン州では教会の焼き払い、牧師への嫌がらせおよび拘留、仏教徒の優先的待遇などが報告されている。チン州のちょうど南に位置する西ラカイン州に住むロヒンギャのイスラム教徒も、宗教のために迫害されてきた。91年から92年にかけて、25万人のロヒンギャのイスラム教徒が、ビルマ国軍の手による強制労働や強制移住、レイプそして殺害を恐れて、隣国のバングラデシュに逃れた。

 1948年にイギリスから独立した後、多くの少数民族は、より大きな自治権や独立を求め、中央ビルマ当局に対抗して武器をとった。軍事政権は、ほとんどの民族と停戦合意を結び、その数は16に及ぶが、カレン民族同盟(KNU)、カレンニー民族進歩党(KNPP)シャン州軍(SSA)の3大武装反政府グループは政府との闘争をいまだ続けている。主に紛争の被害者になっているのは、シャン、カレンニー、カレンの人々である。彼らは、その民族性と、彼らの村の近郊で活動する武装組織を支援していると疑われ、SPDCの処罰の対象になっている。彼らの大多数は、ビルマ(ミャンマー)東部のカレン、カヤー、シャン州の小規模な居住地に住む自給農家である。

 軍による処罰の方法には、強制移住、強制労働、拷問、また超法規的殺害などである。96年以来、シャンの抵抗組織への支援を断ち切るという目的で、30万人を超えるシャン人が農地を追われた。同じ頃、2〜3万人のカレンニーの村人も先祖伝来の土地から移住を強いられた。数は明らかではないが、多くのカレン人もまた、軍の強制移住キャンペーンの中で土地を失った。加えて、これらの地域の軍事行動に従事する軍隊は、日常的に村人から食糧の家畜を盗み、農地を没収し、農地の持主であった村人をそこで働かせている。

 アムネスティのインタビューに応じた被害者は、強制労働が拷問や虐待が起こる状況を作り出していることを強調している。強制労働には、大きく二つのタイプがある。起伏のある道のりを、軍の重い荷物を運搬しなければならないポーターとしての労働と、道路、鉄道やダムの建設プロジェクトでの労働である。男性、女性、子どもまでもが労働義務を負わされ、賃金が支払われることはほとんどない。ポーターとしての仕事は、一度に何日間も、時には何週間もの間、事実上囚人のように労働を強いられるため、一般に建設プロジェクトでの労働よりつらい。拷問や虐待は、インフラのプロジェクトでの労働に際しても起きているが、ポーターの場合の方がより頻繁である。以下は、ポーターとしての仕事の最中に起こった拷問や虐待の最近の例である。

 2000年2月、アムネスティはタイでシャンの難民をインタビューした。インタビューに答えたシャン難民全員が、軍のための強制労働に従事させられた経験をもつ。ライカー(Laikha)郡ノン・ヒ村区(Nong Hi village tract)のナムカイ(Nam Khai)村出身の男性は、家畜を探していたところを捕らえられ、99年11月、11日間にわたってポーターに徴用された。彼は40キロもの弾薬を運ばなければならず、速く歩けないと、殴られたり蹴られたりした。彼は、歯がぐらぐらになるまで顔面を殴られ、体中を蹴られ、頭を銃の台尻でぶたれたという。11日目、体が弱り、それ以上進むことができなくなった彼は、道端に置き去りにされた。この後、彼は家畜を売って、家族とともにタイに逃れた。

 クンヒン(Khunhing)郡ケン・カム(Kaeng Kham)村区のト・ポイ村出身の40歳の男性は、99年12月、17日間にわたって、ビルマ国軍244部隊のために、食糧や迫撃砲の砲弾の運搬を強いられたと話した。彼は、他の約40人のシャンの男性ポーターといっしょに一列につながれ、毎日ほんのわずかの米を与えられただけだった。空腹で地面に座り込んだとき、軍人は彼が気を失うまで、首にのせていたてんびん棒の横木を押し続けた。彼は、足を引きずりながら、一晩中行進するよう強いられた。

 カレンの人々は、長い間ポーターの仕事を強いられてきた。カレン州パアアン(Hpa'an)県フラインブウェ(Hlaingbwe)郡メー・プラー(Mee Prah) 村区出身の42歳の農夫は、毎月ポーターに徴用されていたため、99年1月を最後に、家族とともにタイに逃れた。彼は受けた処遇についてこう語っている。

 「私たちは軍に、持っていたお金を渡さなければなりませんでした。でも、私たちからお金を求めたことはありません。もし、そうしていたら蹴られていたでしょう。私の歩くのが遅くなったり、立ち止まったりするといつも、竹の棒で背中を殴打されたものです。背中や尻を蹴られることもあります。体中が黒や青のあざだらけでした。今でも胸に痛みがあるんです。」

 女性の場合は、一度に何日間か、時には何週間かポーターに徴用されるとき、レイプの危険にさらされる。カレン州パアアン(Hpa'an)県ハタレ村区(Ha Ta Re village tract)出身の29歳の女性は、98年10月の12歳の姪ナウ・ポ・トゥ(Naw Po Thu)のレイプと殺害についてアムネスティに話してくれた。ナウ・ポ・トゥは、他の2人とともにミャワディに基地のあるSPDC部隊の案内人として連行された。彼女は、軍の少佐にレイプされ、なんとか逃げ出したものの、捕らえられて再びレイプされ、銃で撃たれて殺害された。ある軍人と村の少年2人がその様子を目撃し、おばである彼女に話した。翌日彼女は、村人の手でパゴダに運ばれた姪の遺体を見た。ピストルの弾による傷は、死体の膣から頬に抜けていた。少佐は少女の家族に賠償として米一袋、砂糖一升、コンデンスミルク一缶と現金100チャットを渡したという。

 カレン民族と緊密なカレンニーの人々は、強制労働やKNPPの活動について尋問をうけやすい。カヤー州ロイカウ(Loikaw)郡出身のカレンニーのキリスト教徒の農夫は、2000年2月、KNPPに協力したとして軍に逮捕された。彼は受けた処遇について次のように語った。

 「彼らは私を後ろ手にしばり、KNPPの所在について尋問しました。私は何も知らなかったので、正直に知らないと答えました。そうしたら、彼らは私を信じず、殴り始めました。三人の軍人ともう一人が、銃の台尻で私の頭を殴り、顔を殴打しました。頭が切れ、鼻からは血が出て、私が倒れると、彼らは軍靴で私を蹴り始めました。私の聴覚は未だに元に戻っていません。」

 さらなる拷問の後、彼は一週間、案内人として軍隊に同行しなければならなかった。その間、彼は毎日棒で殴られ、ロープでつながれていた。「兵士は、カレンニーの反政府グループが軍を攻撃したのだから、私たちがそういう処遇をうけても当然だと言いました」と彼は報告している。やっと逃げ出して村に戻った後、彼は、家族と共に2週間ジャングルに身を潜め、その後タイに逃れた。

 近年、軍による強制移住、拷問を伴う尋問、村の破壊など、武装反政府勢力への対抗作戦は、武装勢力に何ら関係ない民間人に多大な被害をもたらしている。しかも、ビルマ国軍は、武装闘争にさらに新しい局面を加えている。つまり、民間人のポーターとしての使用である。犠牲者は、飢えと殴打に苦しめられる。また、ポーターにとられたシャン、カレン、カレンニー民族は拷問や虐待の危険にさらされている。


結論と勧告

 拷問やその他の残虐で非人道的、品位をおとしめるような処遇や処罰は、国際人権法や人道法の中で非難されている。しかしビルマ(ミャンマー)では、そのような処遇や処罰が労働キャンプで働く政治囚や刑事囚、武装反政府勢力との接触が疑われた少数民族の民間人を苦しめている。政治囚は外界との接触を絶たれ、尋問を受けているときや、厳しい刑務所のルールを破ったときに拷問をうけることが多い。刑事囚は残酷で非人道的、品位をおとしめるような処遇を受ける状況の中で、砕石や、道路建設の仕事に従事させられている。シャン、カレン、カレンニーの人々は、軍のために日常的に重い荷物を運ばされ、軍の縦列についていけなくなるとしばしば殴打され、蹴られる。また、武装反政府勢力について知っていることがあると疑われると、さらなる拷問や虐待の危険にさらされる。

 アムネスティはSPDCに対して、拷問や虐待に関して以下の勧告を発する。

  1. 直ちに拷問や虐待を止めるよう、軍の情報部員、武装反政府勢力への対抗作戦に遂行する軍隊、刑務所の看守や警察へ、明確な指令を出すこと
  2. 刑務所やその他の公的な拘禁施設に収容されているか、強制的にポーターや労働者として捕らわれているかに関わらず、囚人に対しての拷問、拘禁中の死、および虐待に関する申し立てについて、迅速かつ公平で独立した調査を開始すること
  3. 証拠をもって拷問や虐待を行った加害者を裁くこと
  4. 外界との接触を絶つ拘禁形態を禁じ、全ての囚人が、定期的に親族、医者、弁護士と面会することができるようにすること
  5. 拘禁や調査の手続きを定期的に見直すこと。また、全ての囚人が、処遇に関する不平を申し出る権利を含め、彼らの持っている権利について知らされること
  6. 拘禁が拷問の機会とならないような保障措置を採用すること。収監後、ただちに全ての囚人が、司法当局によって裁かれる機会を与えること
  7. 拷問による自白や証拠の獲得は、法的に何ら有効性を持たないことを認識すること
  8. 「拷問及びその他の残虐、非人道的又は屈辱的な処遇もしくは刑罰を禁止する条約」に加盟すること

以上。


資料: ビルマ(ミャンマー)の刑務所と拘禁施設

MI: Military Intelligence
DDSI: Directorate of Defense Services Intelligence

エイヤーワディ管区(Ayeyarwady Division)

刑務所 (Prison Location)
Hinthada Prison (Hinthada)
Maubin Prison (Maubin)
Kyaiklat Prison (Kyaiklat)
Myaungmya Prison (Myaungmya)
Pathein Prison (Pathein)
Pyapon Prison (Pyapon)
軍の野営地の拘禁施設 (MI Detention Centre Location))
MI-4 Office (Pathein Hill)

バゴー管区(Bago Division)

刑務所 (Prison Location)
Bago Prison (Bago)
Paung Tay Prison (Paung Tay)
Pyay Prison (Pyay)
Tharawaddy Prison (Tharawaddy)
Toungoo Prison (Toungoo)
軍の野営地の拘禁施設 (MI Detention Centre Location)
MI-16 Office (Toungoo)
MI-3 (Bago)
MI-2 (Pyay)

チン州(Chin State)

刑務所 (Prison Location)
Falam Prison (Falam)
Hakha Prison (Hakha)

カチン州(Kachin State)

刑務所 (Prison Location)
Bhammo Prison (Bhammo)
Manchanbaw Prison (Manchanbaw)
Myitkyina Prison (Myitkyina)
軍の野営地の拘禁施設 (MI Detention Centre Location)
MI Office (Myitkyina)
警察の拘禁施設 (Police Detention Centre Location)
Special Branch Police II (Myitkyina)
軍の野営地における拘禁施設 (Military Camp Location)
Army HQ #8 Northern Command (Myitkyina)

カヤー州(Kayah State)

刑務所 (Prison Location)
Loikaw Prison (Loikaw)
軍の野営地の拘禁施設 (MI Detention Centre Location)
MI-27 Office)

カレン州(Kayin State)

軍の野営地の拘禁施設 (MI Detention Centre Location)
MI-5 (Hpa-an)
MI-25 (Myawaddy)
警察の拘禁施設 (Police Detention Centre Location)
Police Station (Hlaingbwe)
軍の野営地の拘禁施設 (Military Camp Location)
Thayin 28 Headquarters (Hlaingbwe)

マグェ管区(Magway Division)

刑務所 (Prison Location)
Magway Prison (Magway)
Thayet Prison (Thayet)
Nyaung Oo Prison (Nyaung Oo)
Pakokku Prison (Pakokku)
軍の野営地の拘禁施設 (MI Detention Centre Location)
MI-12 (Magway Township)
MI Office (Chauk Township)
軍の野営地の拘禁施設 (Military Camp Location)
Military Compound Division 88 (Magway Township)

マンダレー管区(Mandalay Division)

刑務所 (Prison Location)
Mandalay Prison (Mandalay)
Myingyan Prison (Myingyan)
Yamethin Prison (Yamethin)
Meiktila Prison (Meiktila)
軍の野営地の拘禁施設 (MI Detention Centre Location)
MI office (Mandalay Prison)
警察の拘禁施設 (Police Detention Centre Location)
Special Branch Police (Mandalay)
Police Station (Mandalay)
Police Station No.8 (Mandalay)

モン州(Mon State)

刑務所 (Prison Location)
Thaton Prison (Thaton)
Mawlamyine Prison (Mawlamyine)
Chaungzon Prison (Chaungzon)
軍の野営地の拘禁施設 (MI Detention Centre Location)
MI Office (Mawlamyine)
警察の拘禁施設 (Police Detention Centre Location)
Police Prison (Zin Kyet, Thaton Township)

ラカイン州(Rakhine State)

刑務所 (Prison Location)
Kyaukpru Prison (Kyaukpru)
Sittwe Prison (Sittwe)
軍の野営地の拘禁施設 (MI Detention Centre Location)
MI-18)
MI-5 (Hpa-an)
MI-25 (Myawaddy)

ザガイン管区(Sagaing Division)

刑務所 (Prison Location)
Katha Prison (Katha)
Monywa Prison (Monywa)
Shwebo Prison (Shwebo)
Kalay Prison (Kalay)
Khanti Prison (Khanti)

シャン州(Shan State)

刑務所 (Prison Location)
Lashio Prison (Lashio)
Taunggyi Prison (Taunggyi)
Kengtung Prison (Kengtung)
Mogok Prison (Mogok)

タニンサリ管区(Tanintharyi Division)

刑務所 (Prison Location)
Dawei Prison (Dawei)
Kawthaung Prison (Kawthaung)
Myeit Prison (Myeit)
軍の野営地の拘禁施設 (MI Detention Centre Location)
MI-19 (Mergui/Kawthaung)
MI-25 (Dawei)

ヤンゴン管区(Yangon Division)

刑務所 (Prison Location)
Insein Prison (Insein)
軍の野営地の拘禁施設 (MI Detention Centre Location)
MI-12 (Thinganyun Township)
MI-7 (Manawheri, Dagon Township)
MI-6 (Prome Road, Mingaladon Township)
MI Yangon (nr Golf Course)
MI-26 (Okkalapa Township)
MI-14 (Thanhutsung, Botataung Township)
MI Detention Centre (Baungdari)
MI HQ/DDSI (Ye Kyi Aung, Mingaladon Township)
警察の拘禁施設 (Police Detention Centre Location)
Konmyinthaya Detention Centre (8 miles from Yangon)
Kyeikkasan Stadium (Tamwe Township)
Special Branch (Aung Thabye Camp, Mayangone Township)
Bureau of Special Investigation (Behind Strand on Lewis Street)
Police Station (Insein))
Sanchaung Police Station (Sanchaung Township)
Police Station (Thinganyun Township)
軍の野営地の拘禁施設 (Military Camp Location)
Yemon Military Youth Camp (nr Hlaka)
Wahteka MI


訳:Masumi Hori
翻訳責任:アムネスティ・インターナショナル日本 ビルマ(ミャンマー)調整グループ

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問合せ先:
アムネスティ・インターナショナル日本 ビルマ(ミャンマー)調整チーム
E-mail:
〒101-0054 東京都千代田区神田錦町2-2 共同ビル4F
TEL:03-3518-6777
FAX:03-3518-6778





(c) ビルマ情報ネットワーク(BurmaInfo) 1997〜



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