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AI Index: ASA 16/014/2001
13 June 2001

ビルマ(ミャンマー): 迫害の標的となる少数民族


アムネスティ・インターナショナル

アムネスティ・インターナショナル報告書
2001年6月13日

報告書要約

 国民の三分の一を占めるビルマ(ミャンマー)の少数民族は、多数派のビルマ民族とは対照的に、さまざまな人権侵害に苦しみ続けている。タッマドオ(Tatmadaw)と呼ばれる国軍と、少数民族の武装反政府集団との戦闘地域において、この傾向は特に著しい。少数民族は主にタニンサリ管区と東部のシャン、モン, カヤー、カイン州に住んでいる。これらの地域――なかでも武装反対勢力が活発ないわゆる「黒」と「灰色」の地帯――において、国軍はますます大きな存在となっている。軍は反抗分子の捜索に農村を巡回し、武装反政府勢力の活動についての情報を農民から収集する。パトロール中、軍隊は農民の家畜、米、金銭といった私的所有物を盗み、また強制労働の義務のために彼らを拘束する。武装反政府勢力との繋がりを疑われたものは拷問を受けたり、殺害されることさえある。

 1948年の独立以来、少数民族の問題は近代国家維持という目標に向けたビルマ(ミャンマー)の奮闘の中心であり続けている。権力を握るビルマ民族体制による少数民族の扱いは、1988年に始まった民主主義運動の抑圧とともに、今日ビルマ(ミャンマー)における最も根本的な人権問題の一つである。現在、国家平和開発評議会(SPDC: State Peace and Development Council、同国の軍事政府)は、数多くの少数民族の問題と、三つの異なる課題に直面している。一つは合意した少数民族との停戦の継続。もう一つは、いまだ抗争中にある武装少数民族との停戦と平和協定への可能性。そして最後に人権侵害、特にビルマ(ミャンマー)軍が少数民族の民間人に対して行い続ける強制労働である。

 ビルマ(ミャンマー)国内における紛争は、その被害者の大多数が戦闘員ではなく民間人であるという点において、現在の世界各地に起きる内戦の典型的な例といえる。多くの武装民族集団は、現在は支配する土地も広くはなく、移動部隊に分割され、米をもらうためにしばしば村を訪れながら行動する。シャン、カレンニー、モン、カレンの民間人は、村の周りで行動する武装集団の支援者であるとしてSPDCから疑いをかけられる。民間人はこの推定にすぎない支援関係と、彼らの民族性のゆえにSPDCによる刑罰の対象とされる。戦闘の矢面に立つこれらの民間人の大多数は、小さな村落で稲作により必要最低限の生計を立てている農民である。

 国軍は、反乱分子に対する活動において、強制移住、強制労働、拷問、そして超法規的処刑といった多種の人権侵害を犯している。シャンの抵抗集団の支援者であるとして、少しでも疑われたシャン人は、農地から強制的に移住させられる。強制移住させられた民間のシャン人は、すでに30万人にのぼる。同じ理由により2万人から3万人のカレンニーの村人も、祖先代々住み続けてきた土地から追い払われている。また、未知数のカレン人も軍が対反乱分子活動として農村を一掃することにより伝統の地を失った。

 抵抗派への支援を怪しまれた場合、シャン、カレン、モン、カレンニーの民間人は拷問と処刑の危険にさらされる。彼らの村を通る際、国軍は、反乱分子の所在と活動に関する情報を頻繁に要求するが、情報が村人から進んで与えられないと、彼らは村人を拷問し、殺害することさえある。村人は、軍による強制移住の後、昔の農地にこっそりと働きに戻った場合にも殺害される危険がある。2000年5月には、シャンの抵抗派による国軍に対しての攻撃への報復として、シャンの村人ら73人が銃殺されたと伝えられている。

 この報告書において、アムネスティ・インターナショナルは、モン州、シャン州、カイン州とタニンサリ管区の各地に在住する少数民族に関する調査の結果と、アムネスティ・インターナショナルの憂慮を述べる。この情報は2001年2月に行われたタイでの難民との面接に基づいている。面接された難民は、殆んどすべてが生活最低限レベルに生きる農民であり、強制労働、随意的課税の要求、荷役労働の間に受けた拷問と虐待、また知人友人の超法規的処刑等に直面し、これらを避けるために家を捨てて逃れてきた人たちである。

 アムネスティ・インターナショナルは、国軍による超法規的処刑、拷問、強制労働と移住、ゆすりといった行為が、少数民族に対して非常に激しく続いていることに憂慮する。少数民族は、彼らの民族性と、たまたま住んでいる場所による理由で、人権侵害の対象とされている。

 本報告は、アムネスティ・インターナショナルが2001年6月に発行した全34ページの文書「ミャンマー少数民族 : 迫害の標的」(AIインデックス: ASA16/014/2001)を要約したものである。この問題に関する詳細もしくは行動を望む方は全体の文書を参考にされたい。この問題のみならず、多くの人権問題に関する報告等、アムネスティの広範囲に及ぶ文献は、http://www.amnesty.orgで入手可能である。またアムネスティのニュース発表はhttp://www.amnesty.org/news/emailnws.htmより受信することができる。


はじめに

 国民の三分の一を占めるビルマ(ミャンマー)の少数民族は、多数派のビルマ民族とは対照的に、多種の人権侵害に苦しみ続けている。タトマドゥ(Tatmadaw)と呼ばれる国軍と、少数民族の武装反政府集団との戦闘地域において、この傾向は特に著しい。少数民族は、主にタニンサリ管区と東部のシャン、モン, カヤー、カイン州に住んでいる。これらの地域――なかでも武装反対勢力が活発ないわゆる「黒」と「灰色」の地帯――において、国軍はますます大きな存在となっている。軍は反抗分子の捜索に農村を巡回し、武装反政府勢力の活動についての情報を農民から収集する。パトロール中、軍隊は農民の家畜、米、金銭といった私的所有物を盗み、また強制労働の義務のために彼らを拘束する。武装反政府勢力との繋がりを疑われたものは拷問を受けたり、殺害されることさえある。

 これらの人権侵害は、何十年にもわたり起こってきたもので、ビルマ(ミャンマー)における最近のいくつかの進展にもかかわらず、今日まで国軍によって犯され続けている。確かに、国家平和開発評議会(SPDC: State Peace and Development Council、同国の軍事政権)は、国内の野党勢力と国際社会との、両方の関係改善を試みたように見受けられる。2001年1月、国連事務総長特使ラザリ・イスマイル大使によって、SPDCと国民民主連盟(NLD: National League for Democracy, 1990年の総選挙で勝利した政党)の指導者アウンサンスーチー氏が、2000年10月以来、秘密裏に会見を続けていることが明らかにされた。この討議の内容は公にされていないが、両者は相手を公には批判しないという合意に達した模様で、軍政府による報道はNLDへの攻撃を止め(注1:ミャンマーでは報道は厳重に検閲され、官公認のメディアが、NLDとアウンサンスーチー氏の人格に対する痛烈な非難を日々取り扱い、軍用のプロパガンダ道具として機能している)、NLDの方も政府批判の声明をいっさい控えている。最近では、この話し合いへの少数民族の参加を求める声が高まっているが、この文章が書かれている時点では、この件に関する声明は発表されていない。

 アウンサンスーチー氏は、ヨーロッパ共同体(EU)や国連人権高等弁務官(UNHCHR)からのものを含む、いくつかの代表団と会うことができたものの、事実上の自宅軟禁下に置かれ続けている。2001年1月にはEUの「三者代表」が、18ヶ月ぶりにビルマ(ミャンマー)を訪問した。4月には、新しく指名されたUNHCHRのミャンマーに関する特別報告者パウロ・セルジオ・ピネイロ(Paulo Sergio Pinheiro)教授が、予備的調査と自身が性格づけた訪問を行った。ラザリ大使は、2000年7月と10月、また2001年1月の来訪中に、アウンサンスーチー氏とその他のNLDメンバーと面会した。大使はまた、6月初旬に訪れSPDCの上層部、アウンサンスーチー氏、そして監禁されていないNLD執行委員と会見した。

 さらに、SPDCは一連の人権に関する研修を公務員に与えることを許可した。この研修は二種類ある。ひとつは、オーストラリア政府によるものであり、もうひとつは、ビルマ(ミャンマー)東南部で天然ガスのパイプラインを運営する英国企業のプレミア石油によるものである。国際的に評価を受けている人権法律家による研修が、2000年の7月と10月、そして2001年2月に行われた。内務省、警察、刑務所、防衛省戦略研究所からの職員等が参加した。さらなる研修会が年内に計画されているといわれている。

 さらに肯定的な変化として、SPDCは、オーストラリア政府の「何らかの人権メカニズムを国レベルで設置する」という1998年の提案に沿って、その準備的処置を取った。ジュネーブのビルマ(ミャンマー)常任代表はこの進展を最近次のように述べた。

 「政府は、国家平和開発評議会のキンニュン第一書記によって率いられる執行委員会を最高レベルで設置し、またティンフライン大佐・内相によって率いられる人権委員会も設置した。これらの機関は準備作業を行っており、人権擁護と促進に関する正式な政府機関の設置への道をそのうち開くであろう。」

 しかし、こういった肯定的な動きはあるものの、SPDCは未だ厳格な統制をしいており、人権問題を改善するための具体的な政策とはなっていない。最近になって100名ほどが釈放されたが、いまだ約1850人の政治囚が牢獄に残されている。刑務所の状態は相変わらず悪いが、一方で、赤十字国際委員会(ICRC)は、刑務所と労働キャンプ、またその他の拘禁施設への訪問を許可されてきている。2001年4月18日には、国連人権委員会がこれらの傾向を反映した決議を、合意によって採択した。決議はいくつかの最近の発展を歓迎しながら、以下の事実を深く憂慮したものとなっている。

 「4.(a) ミャンマーにおける人権状況の悪化、および超法規的処刑、即決処刑、恣意的処刑、強制失踪、レイプ、拷問、非人間的扱い、集団逮捕、強制労働、強制移住、集会・結社・表現・移動の自由の否定を含む重大で組織的な人権侵害の変わらぬパターン」

 以下に続く文章において、アムネスティ・インターナショナルは、モン州、シャン州、カイン州と、タニンサリ管区の各地に在住する少数民族に関する調査の結果、およびアムネスティ・インターナショナルの憂慮を述べる。この情報は2001年2月に行われたタイでの難民との面接に基づいている。面接された難民は、殆んどすべてが生活最低限レベルに生きる農民であり、強制労働、随意的課税の要求、荷役労働の間に受けた拷問と虐待、また知人友人の超法規的処刑等に直面し、これらを避けるために家を捨てて逃れてきた人たちである。


背景

 1948年の独立以来、少数民族の問題は近代国家維持という目標に向けたビルマ(ミャンマー)の悩みの種となってきた。権力を握るビルマ民族体制による少数民族の扱いは、1988年に始まった民主主義運動の抑圧とともに、今日のビルマ(ミャンマー)における最も根本的な人権問題の一つである。現在、国家平和開発評議会(SPDC : State Peace and Development Council、同国の軍事政権)は、数多くの少数民族の問題と三つの異なる課題に直面している。一つは合意した少数民族との停戦維持。もう一つは、いまだ抗争中にある武装少数民族との停戦と平和協定への可能性。そして最後に人権侵害、特に国軍が少数民族の民間人に対して強いている強制労働である。

 植民地時代、英国は、少数民族が大半を占める地域の多くを別々に管理した。1948年のビルマ連邦の建国において大きな問題となったのは、中央平原を囲む国境地域の統治であった。現在、同国は七つの管区と七つの少数民族州によって成り立っている。州はシャン、カヤー、カレン、モン、チン、カチン、ラカインという、民族名をとって名づけられている。しかしながら、これらの民族州には自治権が全くなく、独立後まもなく起こった論争は、結局全7州において武装集団が結成される結果となった。この民族に基づいた武装集団の出現は、独立後のビルマ国史において、極めて重要な問題となっている。

 少数民族は4800万のミャンマーの人口の約3分の1を占める。彼らは国内のあらゆる地域に住んでいるが、主に中央のビルマ平原を囲む7の州に集中している。国家平和開発評議会(SPDC : State Peace and Development Council、同国の軍事政権)によれば、ビルマ(ミャンマー)には135の「国民として認められた民族」が存在する。SPDCは「…民族の文化と良い伝統の維持と理解」に向けて努力していると主張しているが、実際には少数民族の経済的、社会的、文化的権利は大幅に剥奪されている。

 例えば、政府の教育制度において、少数民族の言語による授業は殆んど許可されていない。また少数民族は、宗教に基づいた迫害をも受ける。同国では、ほとんどの国民が上座部仏教徒だが、イスラム教、キリスト教、アニミズム、ヒンドゥー教の宗教的少数者も存在する。90%以上がキリスト教徒であるチン民族は、政府によって仏教に改宗させられようとしているという証拠も提出されている。チン州においては、教会の放火、牧師に対する嫌がらせや拘留、地元の民間の仏教徒への優遇処置などが報告されている。ロヒンジャ民族や、ラカイン州北部に住むイスラム教徒もまた、宗教に基づいた迫害を受けている。1991年と1992年には、彼らのうち25万人が強制労働と強制移住、レイプ、殺害を避けるためにバングラデシュに逃れた。ロヒンジャは、135の「国民として認められた民族」のひとつに含まれず、同国の国民としての市民権を持っていない。SPDCは、「彼らはラカイン州に職を求めにバングラデシュからやってきたベンガル系移民にすぎない」と主張している。

 1998年9月、現在の軍事政権が権力を掌握したとき、彼らは武装少数民族との停戦交渉を試みるという新しい政策を打ち出した。現時点において、SPDCはおよそ17の停戦合意が結ばれたと主張している。しかし、これらの同意は、より恒久的な政治的取り決めにはいまだ至っておらず、停戦中のほとんどの集団は、軍隊と武器のみならず、広さはそれぞれ異なるが、彼ら自身の領地を維持したままである。現在は、3つの主な武装集団――カイン州のカレン民族同盟 (KNU:Karen National Union)、カヤー州のカレンニー民族進歩党(KNPP)、そしてシャン州南東部のシャン州軍南部(SSA-South)──がSPDCとの抗争を続けている。KNUはまた、モン民族の小さな武装集団とともに、タニンサリ管区にも存在する。

 ビルマ(ミャンマー)の国内における紛争は、その被害者の大多数が戦闘員ではなく民間人であるという点において、現在の世界各地に起きる内戦の典型的な例といえる。多くの武装民族集団は、現在は支配する領土は広くなく、移動部隊に分割され、時々米をもらうために村を訪れながら行動する。シャン、カレンニー、モン、カレンの民間人は、村の周りで行動する武装集団の支援者であるとSPDCから疑われる。民間人はこの推定にすぎない支援関係と彼らの民族性のゆえに、SPDCによる刑罰の対象となる。戦闘の矢面に立つこれらの民間人の大多数は、小さな村落で稲作により必要最低限の生計を立てている農民である。

 国軍は反乱分子に対する活動において、強制移住、強制労働、拷問、そして超法規的処刑といった多種の人権侵害を犯している。シャンの抵抗集団の支援者であるとして少しでも疑われたシャン人は、農地から強制的に移住させられる。強制移住させられた民間のシャン人は、すでに30万人にのぼる。同じ理由により、2万人から3万人のカレンニーの村人も、彼らの祖先代々からの地から追い払われている。また、未知数のカレン人も、軍が対反乱分子活動として農村を一掃することにより伝統の地を失った。

 広範に渡る強制移住と強制労働は、多くの少数民族の伝統的生活を崩壊に至らせた。強制移住させられた者は農地を、家畜を、そして愛着のある先祖代代からの土地を失った。頻繁な強制労働の結果として、しばしば多くの少数民族は、軍のための仕事に追われるがために、農業という生活手段を失った。この点において、少数民族は市民権と政治権のみならず、経済権、社会権、そして文化権をも剥奪されている。これらの権利は国連の「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」によって保証されているものである。その第1条2項は「いかなる場合においても人々の自給自足の手段を奪うことがあってはならない」と定めている。

 1996・97年より、軍は自ら「自給自足計画」を始めたといわれ、各部隊は食糧を自ら供給しなければいけなくなったといわれている。しかし現実は、この計画によって、対反乱分子作戦地域の人々に対する、軍用作物の栽培といった強制労働の義務が増加している。加えて、国軍部隊は、従来から一定程度村人に寄食していたが、それが今や兵士達が村人の作物、家畜、金銭、私的所有物を頻繁に盗むようになり、より多くの苦痛を強いる結果となっている。軍が村や農地に入ってくると、牛は奪われて殺され、米は盗まれるか焼き払われ、そして他の所持品も強奪される。2000年2月にアムネスティによってインタビューされた難民の多くは、そう伝えている。

 抵抗派への支援を怪しまれた場合、シャン、カレン、モン、カレンニーの民間人は拷問と処刑の危険にさらされる。彼らの村を通る際に、国軍部隊は、反乱分子の所在と活動に関する情報を頻繁に要求するが、情報が村人から進んで与えられないと彼らは拷問され、殺されることさえある。村人が、軍により強制移住させられた後に、昔の農地にこっそりと働きに戻る場合も、殺害される危険がある。2000年5月には、シャンの抵抗派による国軍への攻撃への報復として、シャン民族の村人ら73人が銃殺されたと伝えられている。

 アムネスティは、このような意図的で非合法的な殺人を、超法規的処刑と呼んでいる。超法規的処刑は政府役人の命令、もしくは政府の共謀または黙認によって実行可能となる。超法規的処刑は、警備隊による正当防衛の殺人、警察が小火器を国際協定に沿う形で使用した際に生じた死、また死刑判決の執行などとは区別される。超法規的処刑は、しばしば警備隊が敵なる相手に対し不必要に強大な力を施行した結果として起きる。以下にアムネスティはシャン、モン、カレンの民間人35人の超法規的処刑についての情報を提出する。


強制労働

 少数民族に対する人権侵害で最も広く行きわたっているのはおそらく民間人に対する強制労働だろう。少数民族は多数派のビルマ人よりはるかに軍に拘束されやすい。強制労働には主に2つの種類がある。ひとつはポーターリングと呼ばれる荷役労働で、軍隊のために重い荷物を荒地で数日間もしくは数週間運ぶというものだ。もう一つは道路、線路、ダムなど建設現場での土木仕事だ。男、女、子どもを問わず労働義務にかり出されるが、賃金を払われるということはまずない。数日間もしくは数週間続けて働かなければならず、実質的に囚人として捕らえられている状態にある。一般的には荷役の方が過酷である。親が病気だったり、農地で仕事に追われているときは、子どもが建設場で働くこともしばしばである。

 この13年間、アムネスティは国軍によって広範囲に行われる少数民族の強制労働徴用を記録してきた。90年代はじめまで、強制労働は主に軍のための荷役という形をとった。軍は、田園地帯や農村のパトロールに、または武装対抗集団との戦闘において、荷役労働者を対反乱分子作戦の一部として使った。SPDCといくつかの武装対抗集団との間の停戦にも関わらず、強制荷役労働の慣習は、主に内部闘争の収まらない地域においていまだ続いている。

 1990年代はじめから国軍は国中において、その規模と行動範囲をおびただしく増大した。この軍国化のひとつの特色は、国内のいたる所における道路、ダム、線路、そして軍用兵舎といったインフラ建設事業の著しい強化であった。数十万人もの民間人が、こうした事業の無賃金・無報酬で駆り出された。1996/97年の自給自足計画には、地元の軍司令部が、各部隊に対して自ら食糧調達するよう命ずる旨の発令書も含まれていた。その結果、少数民族の人々が代々耕作してきた土地は軍隊によって取り上げられ、土地を奪われた農民たちは、食糧を軍隊へ提供するために耕作を強いられる結果となった。

 無賃金・無報酬の強制労働は、ビルマ(ミャンマー)が1955年に批准した1930年の強制労働に関するILO(第29号)条約に違反している。ILO(国際労働機関)は、数年にわたりビルマ(ミャンマー)の強制労働の問題を取り上げ、また政府が29条に従うよう促すために一連の方策を採用してきた。2000年6月には、ILO総会が規約33条のもとに決議を採択。これはILO加盟国(注2:ILOは175の加盟国から成り立ち、政府代表、労働組合、全加盟国からの雇い主を含んだ、国連において唯一の三者間機関である)に、SPDCとの関係を再検討し、またその関係が強制労働の慣習の存続のために利用されないよう取り計らうことの二点を勧告したものだった。決議はまた、国際機関に対してSPDCとの協力活動を全面的に再検討することと、強制労働の慣習を直接的にも間接的にも助長しかねないような活動を全て停止することを要請した。加えて決議は、国連の経済社会理事会(ECOSOC : Economic and Social Council)と総会に、同様の勧告を加盟国と特別機関宛てに出すよう要請するものだった。

 2000年10月27日には、ILO視察訪問中にSPDCが「1・99指令を補う指令(Order Supplementing Order No 1/99)」を発令した。これはすべての民間と軍の当局に対して強制労働への徴用を明白に禁じ、有罪者への刑罰を規定したものである。しかしながら、2000年11月にILOの理事会は、SPDCは29条に応じるための具体的な処置を十分にはとっていないと判定し、6月に採択された決議を新たに確認した。12月には、ILO事務総長が全ILO加盟国政府に、強制労働問題の見地から、各国政府が行ったSPDCとの関係再検討の結果報告を求める書簡を発送した。

 2001年5月には、ILO代表団はビルマ(ミャンマー)を訪問し、同年9月にILOのハイ・レベル・チーム(HLT:High Level Team)によって行われることになっている客観的査定のための文章についてSPDCと合意した。この査定は3週間に及ぶ同国での調査に基づいて行われるものである。合意書は次のように述べている。

 「HLTは、なかんずく先に言及された『規約と勧告の適用に関する専門家委員会(Committee of Experts on the Application of Conventions and Recommendations)』の記録書の指摘を鑑み、調査の日程、面会、会談、訪問を計画、そして実行する全決定権を持つ。この決定権への例外は、安全に関する正当な根拠のある考慮のみを例外とする。」

 2001年6月11日に、ILOの『基準の適用に関する委員会(Committee on the Application of Standards)』がビルマ(ミャンマー)に関する特別会談を開いたが、この同月、ILCもジュネーブで会合を招集した。

 アムネスティは近年SPDCがILOと協力していることを歓迎し、そのような協力がビルマ(ミャンマー)における強制労働の撤廃に向かうことを願う。しかしながら、アムネスティが2001年2月に行った多くの難民との面接によれば、強制労働のパターンは本質的には数年来変わっていないと指摘されなければならない。アムネスティは強制労働の慣行は、拷問や、残虐かつ非人道的または品位を傷つける取り扱いあるいは刑罰、超法規的処刑といった人権侵害を助長するという懸念をたびたび表明してきた。なおまた、民間人が軍によって強制的に無賃金労働に従事させられ、その義務から解放するまで実質的に拘禁されているという点において、強制労働は恣意的拘禁の一種であると認識される必要がある。


モン州とタニンサリ管区

 ミャンマー東南部のモン州とタニンサリ管区の人口は、モン、カレン、タヴォイ、メルギーの人々、そしてより小さな少数民族が混合したものである。クメール人と共に東南アジア大陸に最初に定住したモン人は植民地時代以前に大きな王国を築き上げた。彼らはダウェー北部の村落に居住してきた。主にメルギー地域に住むメルギー人と、主にダウェー市周辺に住むタヴォイ人は、民族的にはビルマ人と同じグループに属するが、彼ら独自の方言と地域文化を生んだ。2001年2月に、アムネスティはこれらの少数民族集団の人々と面接を行った。彼らはタニンサリ管区のイェーピューとタニンサリ郡、モン州のムドン、パウン、タンビューザヤッ、イェー郡、およびカイン州のチャーエインセイッチー郡の出身であるが(注3:ビルマ(ミャンマー)では、7つの州がそこに生きる主な民族グループのもとに名づけられているが、カイン州やタニンサリ管区に住むモン人、モン州やタニンサリ、バゴー、エイヤーワディ管区に住むカレン人もいる)、強制労働や法外で恣意的な徴税といった人権侵害からタイ・ビルマ国境に逃れてきた人々である。

 1995年6月、新モン州党(NMSP: New Mon State Party)は、当時の国家法秩序回復委員会(SLORC: State Law and Order Restoration Council)(注4:1997年11月にSLORCはState Peace and Restoration Councilと名を替えた)と停戦の合意に達したが、いくつかの小さな集団が新モン州党から離脱し、SPDCとの闘争を続けている。さらにカレン民族同盟(KNU)の一部の少数派グループとビルマ軍と間においても、バゴー、タニンサリ管区、そしてモン州において小競り合いが続いている。これらの集団が行動する地域に住む民間人は、結果的に、国軍が農村地域を偵察する際に荷役労働者として捕らえられたり、武装集団の所在について尋問される危険にさらされている。

 何人かの男性は、国軍の荷役労働者としての経験をアムネスティに語ってくれた。タニンサリ管区イェーピュー群トン・カウン村出身の、あるモンの稲作農民である男性(20)はカウバウッ駐在の第273歩兵部隊とダウェー駐在の第282部隊の両方に計「約70回」荷役労働者として拘束されたと話した。彼は2000年12月初旬に、第273部隊に捕らえられ、弾薬と制服を3日間運ばされた。彼自身は縦隊についていくことができたので殴られることはなかったが、他の荷役労働者が殴られたり蹴られたりしているのを目撃した。支払いは全くなく、食糧も与えられなかった。田畑から頻繁に離れなければならなかったので、結果として作物が打撃を受けた。彼はまた、同じ村からの30才の同僚ウー・ニェイン(男性)の死についても話してくれた。ウー・ニェインは、荷役労働者として働かれされていたが、2000年11月に国軍とモン民族の無名の武装集団との小競り合いの中で亡くなった。SPDCの軍隊が、待ち伏せていたモンの集団に襲撃された時、彼は十字砲火に巻き込まれ下腹部を撃たれた。治療を全く受けることもなく、彼は妻と5人の子どもを残して亡くなったが、家族が軍からの賠償金を受けることはなかった。

 アムネスティの行った面接によれば、この同じ男性は、2000年12月中旬、前述のモンの武装集団への援助者と訴えられ、第273部隊によって尋問され拷問を受けたという。最終的には、彼ではなく他の村人がモン人の集団を助けたのだが、彼は案内役を頼まれれば「民間人として」指示に応じないわけにはいかないものだ、と話した。男性は第273部隊の兵士によっていかに扱われたかを次のように描写した。

 「縄で縛られました。…… 背中を殴られ、銃の台尻とむちで打たれました。モン人の集団に食糧を送ったかと訊かれたので、送ったことはないと応えましたが、信じてもらえず、さらに打たれ続けました。何度殴られたかはわかりませんが、10人にやられました。私をうつぶせに寝かすと、背中に2本の棒を置き、両端に兵士が乗っかりました。またナイフで胸を突っつかれもしました。情報をもっと求められましたが、私はそれ以上何も知りませんでした。すると軍人は穴を掘り私をその中に入れて寝かせると竹で殴りました。殺すといわれ、私自身も死ぬと思いました。しかし、引き出されると、今度はココナツの木に縛られまた殴られました。そのまま一日中炎天下に残されました。…… 」

 男性が打たれている時、その場にいた母親が悲鳴をあげたため、彼女自身も顔と胸を殴られたと男性は話した。彼は、その日遅くマ・タンダウン村まで船で連れていかれ、翌朝解放された。帰ると、その村に駐在の第273部隊の兵士に再度殴られた。縛られ、もう一夜拘留され、そのあとようやく解放された。翌日彼は妻と共に村を去り、最終的にタイにたどり着いたという。

 タニンサリ管区タニンサリ郡タ・タ・ポン村出身でメルギー仏教徒のある農民は、2000年2月に荷役労働者として2ヶ月間拘束された。他の二人の農民と田んぼで寝ているときに兵隊がやってきて捕らえられたという。重い武器の運搬を第17歩兵部隊と第103歩兵部隊の共同縦隊に強制されたが、食糧をほとんど与えられず賃金も全くなかった。3月には、カレン民族同盟との小競り合いの際に、友だちのタン・ニュン(30)を、部隊が人楯としてとして使うために前線に連れ出そうとするのを目撃した。タン・ニュンは、兵士のいうことを聞かなかったため背後から射殺された。目撃者の彼は、「死ぬほど怖くなり、その後すきを見て逃げだした」と話した。村に帰ったあと、妻と共にタイ国境まで行くことを決意したという。

 カイン州チャーエインセイッチー郡タウンバウッ村出身のあるモンの農民(33)もまた、強制労働と荷役労働の絶え間ない要求が理由でタイに逃げた。2000年7月初旬に稲田に向かう途中、彼はモン州タンビューザヤッの兵隊に捕らわれた。疲れて体が弱り、荷を運び続けることができなくなるまで10日間弾薬の運搬を強制された。与えられたのは、米と乾燥トウガラシだけで、賃金は全く支払われなかった。彼はまた、夜にも荷役労働者として働かされた。斧の握り部で背中を打たれ、口から血が出るまで顔を殴られた。彼はさらに三日間働き続け、その後ついに暗闇にまぎれて逃げだした。10日後、兵士たちは彼の村に戻って来ると、彼の家を荒らしすべての家畜を殺したという。

 その同じ目撃者はまた、2000年4月に起った道路建設事業での強制労働の様子を話してくれた。チャーエインとティー・ポオ・カルー間の道路修理のため、労働提供の命令を彼の村長が受け、女性も加えた37の村人が道路での仕事を強いられた。同じ地域内の他の村もまた参加を強要された。目撃者は働いている間、道路の仕事場に3日間残り、食糧は自給しなければならなかった。

 モン州イェー郡カー・ピャー村に住んでいた、もう一人のモン民族の農民も、絶え間ない強制労働の要求が理由で逃れてきた、とアムネスティに話した。彼自身は全く見たことがなかったそうだが、あるモンの武装集団が彼の地域で活動していたという。1999年以来、彼や同僚の村人は「純粋な村人」ということを証明する書類を持ち歩くことを義務づけられていた。2000年5、6月には、イェー町に駐屯する国軍第343歩兵部隊のための弾薬や補給品の運搬を強いられた。女性でも未亡人か独身であれば、14才以上37才以下は荷役を義務づけられた。彼女らは、男と同じだけの重量を運ばされ、兵士は、男たちに運搬の手助けをすることを認めなかった。男性については、14才以上68才以下は、国軍のために荷役労働を提供しなければならなかったという。彼は2000年6月に13日間捕らえられたが、その時に起ったことを次のように話してくれた。

 「私は殴られませんでしたが、祖父が殴られました。68才でした。疲労のあまり倒れてしまったところ、兵士たちが軍靴で蹴ったり、銃の台尻で殴ったりしたのです。ウー・バシーという名前でした。自分の祖父が殴られているのを見て悲しくなりました。祖父の分担の荷物を私が一部引き受けさせてほしいと兵士に懇願しましたが、許されませんでした。祖父は荷役から帰ってくると三日後に亡くなりました。私はその二日後に家を出て逃れてきました。」

 彼はまた、2000年の3月と4月に、第273歩兵部隊にイェーとダウェー間の鉄道近くで、100名の村の同僚と木材の収集を強いられた、と話した。村人はこの事業のために11日間仕事場に泊りながら働かなければならなかった。食糧も賃金も一切与えられなかったという。

 5人の子どもを連れたある女性は、法外な徴税と強制労働に耐えきれず、モン州イェーを後にしたと語った。穴を掘ったり、柵や兵舎を建てるといった仕事をイェーの町の第61歩兵部隊に強いられた。彼女の夫は、2000年12月の雨期中に起きた地すべりのあと、イェーとダウェー間の鉄道工事の仕事を強制された(注5:1993年12月より何万という村人がこのモン州のイェーとタニンサリ管区のダウェーを結ぶ160キロにわたる鉄道路において働かされた。完成後も修理のために軍は村人をむりやり働かせ続けている。)。彼はまた、2000年9月には第61歩兵部隊のための荷役労働を20日間課せられた。この女性によれば、マラリアと疲労によって倒れるまで、彼は銃剣で突つかれながら重い弾薬を運ばされたという。家に戻ってくると、妻に「あまりにもひどい扱われ方だった。生きのびることができたのは、運が良かったからでしかない」と言った。彼らもまた賃金を支払われたことはなく、そのうえ土地代、警備費、さらに「スポーツ費」として軍に毎月1万チャット(注6:チャットとはミャンマーの通貨である。公式の為替レートは1米ドル6チャットであるが、非公式のレートはその100倍にも達する)を払わなければならなかった。

 6人の子どもを連れたあるモンの未亡人(45)は、「食べるものが何もなかった」ため、モン州ムドンの町の家を出たとアムネスティに語った。彼女の夫モー・ナイン(45)は、2000年6月に結核で亡くなったが、その三ヶ月前に第62歩兵部隊に荷役労働を強いられた。二ヶ月間、備品を運ばなければならなかったが、ひどく咳をしたため何度か殴られた。家に帰ってきた時には極端に弱っており血を吐いていたという。家族の財政では医療費は払えなかった。

 タニンサリ管区イェービュー郡チャウン・ピャから来たあるモンの男性(25)は、荷役労働を月に4、5回強制された。最後は2001年の1月下旬であったが、この時は、第273歩兵部隊に捕えられ、逃亡してすぐさまタイ国境に逃げ込むまでの5日間、60ミリ迫撃砲弾を運ばされた。歩くのが遅すぎると軍曹に背中を蹴られた。彼の村は3つの前哨部隊の間に位置していたので、村人は3部隊のどれからも労働を強要された。自分自身のために働く時間は残らず、労働への賃金は出ず、そのうえ定期的に軍に税金を納めなければならなかった。軍による民間人のこういった扱いは、少数民族に対する人権侵害のあまりにも典型的な例だが、そのため民間人は普通の生活をして自分自身と家族を養っていくことができない。

 モン民族の難民によれば、軍部による人権侵害の他に、ピー・トゥー・セッもしくは「人民軍」と呼ばれる地元の民兵組織(国軍系)からもまた様々な形の虐待を受けたという。イェー郡モウッケン村のある男性は、地元のSPDC(注7:SPDCの行政部は 村・郡を含め地域レベルで存在する)に月額を支払わなかったので、2000年11月に2日間足枷にかけられた。SPDCの役人や他の重要人物が地域を訪問する際、必要な費用を負担する特別基金だったという。イェーの町から来たある女性も、国軍系の民兵組織による強制労働と徴税が理由で家を去ったと話した。三ヶ月税を払えずにいると、民兵組織から「厳しい処罰」を受けなければならないという通告を受けた。彼女の証言によれば、その民兵組織は、民間人によって構成されてはいるものの、地元のSPDCの役人によって選ばれ、その上武装しているという。この組織は「権力を持っていて、…… ギャングのようなもので…… 強制労働からは免除されている」と彼女は話した。

 他の難民は、米の収穫の際に軍に払わなければならない「稲税」について話した。モン州パウン郡ズィン・チェイッから来たある女性は、夫と共に、合わせて1エーカーあたり籾(もみ)20バスケットの納税を軍に強いられたという。1エーカーの水田から収穫できるのはせいぜい50バスケットが限界なので、この納税の後、農民自身に米は十分残らなかった。ムドン郡のカマワッ出身のあるモンの男性によれば、1エーカーあたり収穫できる30バスケットのうち25バスケットをSPDCに市場レートの3分の1で売らなければならなかったという。また彼は、ゴム農園を農務省に取り上げられたと話した。代償金は一切なく、苦境に「耐えることができなかった」と話した。

 SPDCと新モン州党(New Mon State Party)との間の戦闘停止にも関わらず、民間人はいまだに、カレン民族同盟(KNU)とモンの分裂グループに対する、国軍による対ゲリラ作戦の影響に苦しんでいる。加えて、民間人は道路や線路事業、または軍事施設での強制労働を強要され、自分たちの暮らしを立てていくことができない。さらに彼らの収入は、稲税と他の納付金によって一段と切り詰められている。数十年におよぶモン、メルギー、タヴォイの人々に対する人権侵害の責任を軍が取らない限り、これらの少数民族がこのような虐待に苦しみ続けることは間違いない。


カレン少数民族に対する人権侵害

 2001年2月、アムネスティ・インターナショナルはカレン難民と面接し話しを聞いた。彼らは皆、稲作を自給自作用作物として育てる農民であり、カイン州北部パープン県とパープン県に隣接するバゴー管区東部のニャウンレービン県からタイに逃げてきた人々である。そのうち殆んどは、過去4年の間に彼らの地域において行われたSPDCによる対ゲリラ作戦の一環として強制退去させられた人である。カレン民族同盟(KNU)は、これらの地域において活動しており、面接を受けた多くの難民は「黒」の地域──すなわちKNUが、国軍によって退去させられた後も、なんらかの形で存続しているとされる地域──にもともと住んでいた。国軍はこれらの地域を「無差別砲撃」の対象地帯とし、見知らぬ民間人は兵士にすぐさま射撃される。面接を受けた難民の何人かは親戚や村の同僚をそのようにして失ったと話した。

 加えて、国内において強制移住させられたカレンの人々は、しばしば飢餓もしくは治療可能な病気によって死亡する。これは、カイン州北部やバゴー管区の山岳地帯ジャングル内における彼らの隠れ場に、十分な食糧や医療処置が欠けていることによる。民間人を農地から追い払う際に、国軍は通常、退去後に食糧が残らないよう、農民の米と家畜を盗み、さらに米納屋を焼く。強制移住させられた人々のなかには、自分らの店から米をなんとか回収し、わずかながらの稲を隠れ地において育てている人もいるが、その供給量はたかがしれている。十分な栄養を取れず、病気に対する抵抗力を急激に失う子どもと老人は、特に厳しい立場に置かれる。カレン民族同盟(KNU)への食糧供給を絶つための作戦としてSPDCは言い訳をするが、民間人にとっては食糧を得る権利が組織的に奪われているというのが実情である。面接を受けたうちの大多数は、ジャングルで生きのびることができなくなって逃げてきた人々である。

 カイン州北部のカレンの民間人が直面するもうひとつの脅威は、国軍とカレン民族同盟の両方によって埋められた多数の対人地雷である。アムネスティに面接を受けた幾人かの人々は、地雷を踏んで亡くなった親戚や知人について話をしてくれた。地雷の被害にあった人の多くは医療的な処置を受けることもできず、出血多量で亡くなったとのことである。対人地雷の使用は、カイン州で広くいきわたっているが、近年特に劇的に増加した。対人地雷は結果として民間人の被害者を頻繁に生む無差別型武器であり、アムネスティはその製造と使用に反対している。

 アムネスティはカイン州北部での国軍による対ゲリラ作戦活動を背景とするこれらの人権侵害を過去5年間にわたり報告してきた。そのパターンは本質的に変わっていない──強制移住、農村の破壊および食糧の壊滅、そしてカレン民族同盟の行動地域における国軍によるカレン民間人の射殺。国軍はカイン州パープン県とバゴー管区ニャウンレービン県のカレン民間人を1970年代以来強制移住させてきたが、1999年前期と2000年後期に彼らの農村と作物を対象とする壊滅運動を増大した。「黒」の地域外に住み、村にとどまる民間人は、軍による強制の荷役と労働の危険にさらされている。

 現在、タイのミャンマー国境近くに位置する難民キャンプには9万7千人以上のカレン人が住んでいる。しかしながらこれに加えて未知数の国内避難民がカイン州全土のいたるところに残っている。彼らは先祖代々の土地から去ることを拒否し、その場に残っているか、もしくは去ることができなくてジャングルに留まって生活している。国軍と地雷の増加により、逃げたくても容易には逃げることはできない。脱出は国軍による攻撃、もしくは対人地雷による負傷を意味するかも知れない。強制退去、地雷、そして超法規的処刑は、カイン州パープン県とバゴー管区ニャウンレービン県において最も深刻である。

 カレン民族同盟(KNU)について、面接を受けた人たちの多くは、幾人かのKNU兵士は周辺にいたが、通常彼らは地域内を動き回っており、特定の拠点を持っていない、と語った。KNUは、ときおり米を求めたが、一般にカレンの民間人の生活を妨害することはなく、時には道案内をしたり、国軍の動きを村人に知らせたりした。しかしながら、パープン県とニャウンレービン県のカレン民間人を、SPDCによる多種の人権侵害から守ることは、KNUには基本的に不可能である。カレン民間人、特に「黒」の地帯に住む人々は、国軍によって敵と見なされ、KNU兵士と比べても不釣り合いに多くの被害を受けている。

難民の証言

 タイまでの道のりは、たいていの場合厳しい山道であり、徒歩で逃れてくる訳だが、難民たちは、この厳しい道を選択しなければならなかった理由をアムネスティに述べた。殆んど全ての難民が二つ以上の理由を挙げた。そのうちもっとも顕著であったのは、ジャングルの隠れ場で、それ以上長く生き延びていくことができないというものであった。過度の強制労働と、友人や親戚の殺害もまた彼らの決意を促した。ニャウンレービン県シュウェキン(Shwekyin)町メー・シー・キー(Meh See Kee)村出身のバプテストの男性(37)は、移動の理由を以下のように説明した。「政府の第一の標的はKNUではなく民間人でした。彼らは村人とKNUとの繋がりを絶つため、組織的に村を飢餓に追い込みました。2000年2月には国軍に強制的に移住させられました。…… 皆さんに知っていただきたいのは、いまでも本当に多くの人が内部では苦しんでいるということです。」彼は家族と共にジャングルに数ヵ月間隠れていたが、2000年6月に、国軍による母と子の殺害を目撃したという。

 「パ・エ・モーは、隠れ場のはずれに位置していた彼女用の小屋で料理をしていました。国軍はそれをKNUとみなし、小屋の中へ砲撃しました。火のそばで料理していた彼女は頬と背を撃たれました。…… その時彼女の夫は私と一緒にいたのですが、すぐさま逃げました。…… 発砲は誰にも聞こえましたが、誰もその小屋にはすぐに近寄りませんでした。翌日行くと、いまだに火にかけてあった料理窯の横に子どもが死んでいるのがあまりにもかわいそうでした。」

 ニャウンレービン県ローキー村出身のバプテストの女性(36)も同じような理由から避難を決意したという。2000年11月、収穫後のすべての食糧と所持品は、村にやってきた国軍によって壊滅させられた。彼女は家族と共にジャングルで生き延びることを試みたが、最終的に食糧が無くなりタイに逃れた。村が攻撃された後、村人にはその時着ていた服以外なにも残らなかった。彼女によれば、攻撃を受けた時、小さな商売を営んでいたロウ・ム(30)が国軍に脇を撃たれて死亡したという。彼は、田んぼから納屋へ米を運んでいる途中だった。

 パープン県メー・トゥー・キー(Meh Thoo Kee)村から来た仏教徒の女性(49)は、村に来た国軍に所持品をすべて盗まれ、その後村を去りジャングルに数ヵ月住んだと語った。彼女は家族と共に隠れていたが、見つかるのを恐れ、火を起こすこともせず、場所から場所へ密かに移動した。2000年なかばには娘のレー・ポウ(15)が隠れていた場所で正体不明の病気にかかった。医療品はどこにもなく、彼女は「薬を請いながら」亡くなった。アムネスティは、この女性から国軍による二人の親戚の殺害についても話を聞いた。2000年の中ごろ、彼女は姪のナウ・ポーが隠れ家に来た兵士に頭を撃たれ、殺害されるのを目撃した。2000年9月には甥のモウ・トゥの小屋が砲撃に見舞われた。彼は妻に先立たれて3人の子どもと暮していた。彼自身は殺害され、3人の子どもは誘拐された。子どもたちの行方はいまだに分かっていない。

 ニャウンレービン県コウ・ム・デー(Kaw Mu Deh)村からのもう一人の農民は、ルワン・モーの死についてアムテスティに語った。彼は仏教徒の山岳農民で、SPDCが村にやってきてからは隠れて暮していた。2000年10月、彼は自分の米納屋から食糧を取ってくるために村に戻ったが、隠れ場への帰り道、兵士に見つかり走り去ろうとした時、逃げきれずに胸を撃たれた。

 パープン県ルー・タウ(Loo Thaw)郡チョウ・メー・プラ(Kyaw Meh Pla)村出身のアニミズム信仰者の男性(27)は、ジャングルでなんとか数年間暮してみたが、耐えきれずタイに避難した。彼は小さい時に患ったポリオのおかげで、歩くことが楽にできなかった。ジャングルで隠れて住んでいるときに、妻と息子を水疱瘡で亡くした。

 「食べるものも薬も一切なく、ここのことを聞いたんです。国軍は来ると何もかもを支配しました。家を移ることもできない、食糧を育てることも買うこともできない…… 。いまでは私たちの地域、つまりパープン北部のチェイッチー(Kyeikkyi)町には、軍の前哨部隊がいる。…… 兵隊がどんどんやってくるので民間人が暮していける所が残りません。…… しかし苦難は新しくも珍しくもないんです。なにしろ生まれた時から苦しみばっかりですから。」

 他の難民も、軍隊に捕まり、強制労働と強制荷役の義務を課された様子を語ってくれた。パープン県ブ・トー(Bu Tho)郡フト・ポー・バ・デ(Hto Pho Ba De)から来た仏教徒の男性(50)は、2000年10月にパープンの町からやってきた国軍に一ヶ月間拘束された。食糧をひとつの前哨部隊から隣の前哨部隊へ運ぶことを強制された。何度か縦隊について行けずに遅れると、ののしられ銃の台尻で背中を撃たれた。食糧不足のせいで体が消耗し弱くなった。またある時は、荷役者として拘束されながらも食糧を与えられなかったため、彼は「だんだんと弱って餓死する」より逃亡した方が良いと決心した。アムネスティにこれまで一度でも賃金を支払われたことがあるかと問われると、憤怒を露にして「どうしてそんなことを聞くことができるんだ。一所懸命働いたが支払われたことなど全くない。だからこそ逃げてきたんだ。もう少しで死ぬところだったんだ。」

 パープン県ブ・トー(Bu Tho)郡出身の村長(48)は、強制労働の要求があまりにも多かったため、彼女自身が農業に営むことができず避難するはめになったと話した。彼女には8人の子どもがいたが、そのうち五人は予防可能な病気によって死に、もう一人の18才の息子は、1996年に軍隊にKNUの兵士と間違えられて殺された。国軍は彼女に、村の長として村人を強制労働用に集めよ、との命令を出した。最近では、2001年1月に、軍は村人に竹を探させ第44師団の前哨部隊まで運ばせた。さらに彼女は強制荷役をする村人を見つける責任をも負わされた。常に十分な人数を集められるわけではなかったので、ののしられ背中を打たれたことが三度あった。村の指導者としての生活をこう語った。

 「女村長であることはとても厳しいことです。…… 女だから打たれたり殴られたりすることなどないだろうと人々は考えます。…… 兵隊は昼であろうが夜であろうがやってきますし、それも多くの違う部隊が来てそれぞれいろいろと要求をするのです。自分自身のことなど全くできません。自分にはなにも残らないです。」

 パープン県ドウェー・ロー(Dweh Lo)郡メ・チョーネ(Me Chone)村出身の仏教徒の女性(19)は、あまりにも頻繁なことなので「運搬仕事ができるようになって以来、13才から」強制労働を何回したか数えることができないという。米の運搬、さらに軍用農園用地と兵舎周辺の開拓の仕事を強いられた。賃金が支払われたことはなかった。同じ村から来たもう一人の仏教徒の女性は、2000年1年に軍隊のために米を運ばなければならなかった。支払いを受けたことがあるかと聞かれると、「聞くだけ無駄なことですよ」という答えであった。彼女は6年間軍隊のための労働義務を果たしてきたが、自分の田畑での仕事をする時間がなくなり逃亡したという。

地雷による死

 パープン県とニャウンレービン県出身の難民の何人かは、誤って対人地雷を踏み亡くなった同僚の村人たちについて話してくれた。その報告によれば、KNUとSPDCによる地雷の使用は近年劇的に増加したにも関わらず、確認されていない地雷や除去されていない地雷が多く、これらはいまや深刻な問題となっているという。しかしながらミャンマーには除去計画どころか地雷に関する教育活動さえ存在しない(注8:Working Paper No. 352,"Landmines in Burma: the Military Dimension", Andrew Selth, Strategic and Defence Studies Centre, Australian National University, Canberra, Australia, November 2000. 編注:同論文はBurma Debate (Vol.7 (4), winter 2000/2001)に抄録されている。日本語訳は次の通り。アンドリュー・セルス(箱田徹 訳)「ビルマの地雷問題:軍事的側面からの考察」)。その特有の性質と使用法ゆえ、対人地雷は無差別型武器である。対人地雷は大量に埋められるが、民間人への影響が考慮されることはほぼ全くない。

 アムネスティ・インターナショナルは数百もの他の団体と共に「国際地雷廃絶キャンペーン」に参加した。赤十字国際委員会と国連に支持されたこの運動は、最終的に1997年12月のオタワ条約 (「対人地雷の使用、貯蔵、生産および移動の禁止並びに廃棄に関する条約」)を生んだ。121ヶ国が対人地雷の製造、販売、輸出そして使用の禁止を誓約したが、残念ながらビルマ(ミャンマー)はこの条約に署名していない。

 ニャウンレービン県チャウッ・チー(Kyauk Kyi)町トウ・エ・ソー(Taw Ee So)村出身の仏教徒の男性は、2000年2月に起きた、同僚の村人である農民のバ・ディ・バー(Ba Di Bah)(30)の死について語ってくれた。耕作地を作るための開拓の仕事をしている途中、彼は地雷を踏み、両足が吹き飛ばされて、そのまま出血多量で亡くなったという。この目撃者は、爆発音を聞いた後、調べに出かけた時に、彼を発見し村まで担いで戻ったという。村は「黒」の地帯に位置し、国軍はすでに村のすべての作物を壊滅していた。

 ニャウンレービン県カウ・ム・デー(Kaw Mu Deh)村出身の別の仏教徒の農民は、同僚の村人ラ・ヘー(35)の地雷による死について話した。この二人は、SPDCに米と家畜を台無しにされた後、ジャングルに隠れていたが、カウ・ム・デーはそこで地雷を踏んでしまった。この目撃者は、彼の死体を発見しで土に埋めたという。

 パープン県ドウェー・ロー(Dweh Lo)町出身のあるバプテストの農民は、1997年以来地方を隠れながら移りわたって生き延びてきた。彼はパープン県ネ・キー(Ne Kee)村出身の仏教徒の男性モウ・チョウ・カウ(Maw Kyaw Kaw)(34)の死について話した。その男性は、米と野菜を取りに隠れ場から自分の畑に戻ったが、地雷が埋められてあることに気づかず、左足を吹き飛ばされた。友人が彼を発見し隠れ場まで担いだ。その友人の農民は、次にように話した。

 「医療品はまったくなく、5時間後に彼は死にました。全身が傷で覆われ、血まみれで、治療を求めて泣き叫んでいましたが、できることはなにもありませんでした。2000年3月のことです。彼の妻は私の叔母で、二人で彼を埋めました。」

 パープン県ルー・トウ(Loo Thaw)町ラ・アウ・ダー(La Aw Dah)村出身の3人の子持ちであるバプテストの未亡人は、対人地雷の犠牲になった2人の村人について話した。彼女も「黒」の地域に住んでいたが、チャウッ・チー(Kyauk Kyi)町からやってきたSPDCの部隊が村のすぐそばに駐屯していたため、そこで農仕事をすることができなくなった。2000年8月には、同僚の村人が地雷によって亡くなった。

 「地雷を恐れながら生活していたので、私たちは移動するたびに脅えていました。犠牲者の一人はレー・ベイ・ブワ(Leh Bay Bwa)という15才の男の子です。私らの村のすぐ近くで、お母さんの畑を手伝っている時に地雷を踏んでしまいました。朝8時の出来事でしたが、亡くなったのは午後5時でした。薬は一切ありませんでした… 。 」

 彼女はまた2000年3月に起きた、同じ村出身のバプテストの農民オー・カウ・トゥオー(Oh Kaw Htoo)の死についても話した。SPDCが来ないかと自分の田畑を見張っていると時に、地雷を踏んでしまい即死したという。

 少なくとも過去4年の間、カイン州北部パープン県とバゴー管区ニャウンレービン県に住むカレンの民間人は、ビルマ国軍による集中的な迫害および暴力行為の対象になっている。軍の目的は民間人とKNUとの関係の断絶にある。現在何千というカレンの人々がこの2の地区内の山奥のジャングルに隠れ住んでいるが、隠れ場の大半は「黒」の地域に属し、彼らは軍に目撃されると直ちに射殺される危険におかされている。

カレン民族同盟による人権侵害

 アムネスティは、囚人に対する拷問や殺害を、加害者が武装反体制集団であれ誰であれ、原理的レベルで非難する。アムネスティは最低限の人道的行為の国際基準を奨励する。これは人道法の基本的条項等であり、いかなる種類の武装集団であろうと従わなければならず、アムネスティはすべての集団がこれらの基準を承認し支持するよう求める。ビルマ(ミャンマー)で起っているような一国内における武力紛争は、1949年のジュネーブ条約第3条によって規定されているが、これは国内紛争に関与する者全員に適用される。共通条項3条(Common Article 3)は特に以下のように述べている。

 「1. 武器を放棄した武装集団のメンバー、また疾病や負傷、また拘留その他の理由により戦闘から外れている者を含み、戦争行為に参加していない者は、いかなる状況下にあっても人道的に取り扱われなければならない」

 過去10年間、アムネスティは処刑、恣意的および意図的殺害、そして拷問等のKNUによる人権侵害を記録してきた(注9:――(編注:原文ママ))。タニンサリ管区において、KNU兵士に対して村から立ち去るよう説得を試みたカレン民間人が、兵士によって殺害されたことがアムネスティに報告された。2000年2月28日、5人の兵士がブラ・ケ・ニー(Bra Ke Nee)村にやって来た(注10:アムネスティは安全を考慮し被害者の氏名を省略した。ブラ・ケ・ニー(Bra Ke Nee)村はビルマ語でマラカ・チャウン(Malaka Chaung)として知られている)。村は、いくつかのカレンの村落があるダウェー町のすぐ南、タイェッチャウン(Thayetchaung)のエー・エー(Eh Eh)村地域に位置している。兵士は村長に多額の現金を要求したが、村が収集した額に満足しなかった。被害者は村から去ってくれるよう説得を試みたが、議論の最中に兵士が彼を射殺した。

 アムネスティはKNUに対し、民間人や武器を放棄した兵士もしくは他の理由で戦闘力を失った兵士を殺害することなく、国内紛争について規定した国際人道法に厳重に従うよう要請する。アムネスティは、KNUに対人地雷の使用の停止、並びにKNUによって埋められた地雷の除去を求める。


シャン少数民族に対する人権侵害

背景

 英国とビルマの間の独立交渉において、シャンや他の少数民族の指導者は、ビルマ連邦への加盟と引き替えに、少数民族の権利の補償を要求した。この要求は1947年シャンの町パンロン(Pang long)での、ビルマ政府とシャン、カチン、チンの代表との合意において認められた。しかし1948年のビルマの独立後、シャン問題の処理をめぐってシャン政府の一部とラングーンの中央政権との間に論争が生じ、58年にはシャンにおいて初めて武装反政府集団が組織された。それ以来、様々な武装集団が現れている。1989年からいくつかの集団がSPDCとの停戦に合意した。クン・サー(Khun Sa)に率いられるモンタイ軍(MTA:Mong Tai Army)は、1996年1月に停戦に合意し、クン・サー自身は降伏したが、彼の指揮下にあった兵士の一部はシャン州軍南部(SSA-South:Shan State Army-South(注11:SSA-Southは元はShan United Revolutionary Army (SURA)と呼ばれた)を結成し、MTAに属していた地域からタイ・ビルマ(ミャンマー)国境に沿ってシャン州中央部へと北進した。

 1996年3月には、国軍が民間人を村々から追い出すことによって、大規模な強制移住がシャン州で始まった。軍は民間人とシャン州軍南部(SSA-South)の関係の断絶を試みたようだが、今日まで最低でも1400以上の村が強制移住の対象となっている。強制退去のペースは緩やかになったが、土地と所持品を失った村人たちは強制移住の甚大な影響をいまだ痛感している。軍は農地、食糧、賃金を支払う雇用といった、賠償手段を一切提供しない。さらに、住民は村から立ち退かされると、作物を収穫にいったり所持品を取りにいくために村に戻ることを禁じられている。国軍はたいてい退去後のさびれた村を無差別砲撃地帯と見なすため、結果として家に戻ろうとしたシャンの民間人は何百という単位で射殺されている。

 アムネスティは2001年2月にタイに着いてまもないシャンの難民と面接を行った。難民はビルマ国軍による人権侵害が、シャンの民間人に対して同じパターンで行われていると報告した。彼らは、シャン州軍南部(SSA-South)が活発なシャン州中南部のマンパン(Murnpan)、マンカーン(Murngkern)、マンナイ(Murngnai)、リクハー(Likha)、ナムザーン(Namzarng)、クンヒン(Kunhing)郡での強制移住と強制労働から逃れてきた。難民のうちの何人かは、荷役労働中もしくはSPDCのパトロール中に起きた友人や親戚の超法規的処刑についても語ってくれた。シャン州軍南部(SSA-South)が村を通ることはあっても、そこに常設の基地はなかったと強制移住させられた人々は話した。

 カイン州北部から避難してきた難民とは異なり、これらシャンの人々は家を捨てて避難するにあたり、軍によって特に困難な目に会わされるということはなかった。タイまでの道のりおいて、SPDCの検問所を通過する際に料金を要求されることはしばしばだったが、軍が避難する人々を止めるようなことは一般に全くなかったという。難民の幾人かは、彼らの地域で勢力を大幅に拡大した武装集団ワ州連合軍(UWSA:United Wa State Army)(注12:UWSAは1989年に当時のSLORCとの休戦に合意したが、それ以降も武器と領土支配を維持している)によって運営されている検問所で料金を払わなければならなかったと話した。

 1999年後半にSPDCは、ワの少数民族の人々を、中国国境近くのシャン州北部からタイ国境近くの同州モントン(Mongton)郡とマンサッ(Murngsat)郡に移し始めた。以来何千もの人々がこれらの地区に移住させられている。ワ州軍連合軍(UWSA)による麻薬の製造と密売は広範囲に及ぶと伝えられており、タイ市場におけるメタンフェタミンの蔓延も彼らに責任があるといわれている。このことが一因でタイ王政とSPDCとの関係はここ18ヶ月で緊張に満ちたものとなっている。2001年には、最初の5ヶ月の間にタイ王軍とビルマ国軍との間に国境を越える小競り合いが生じ、2国間の関係はさらに悪化した。

 シャンの難民は、難民キャンプでの生活をタイ王国によって認められていないため、出稼ぎ労働者として職を特に農業分野において探すこととなる。難民キャンプという組織的保護の恩恵を受けることはできず、また同時に労働者としてもタイ国民と比べるとはるかに低い賃金しか支払われない。なにがしかの補助をシャンの共同体もしくは非政府団体から受けている者もいるが、日雇労働者としての仕事は定期的なものではなく、生活の維持は容易ではない。タイにおけるシャン難民の子どもの大多数は教育をまったく受けていない。

 ある難民(36)はタイでの生活についての気持を次にように語った。

 「タイの地元の皆さんに分かっていただきたいのは、皆さんの保護の下でしばらくの間だけいさせてもらいたいという願いでここまでやって来たということです。私たちは、平和になったら安全に帰りたいと思っているわけで、ここで迷惑をかける気など全くないのです。」

 面接を受けたほぼ全員が、1996年のビルマ国軍によって始められた大規模な強制移住運動の影響に苦しみ続けている。米の栽培を目的に、密かに稲田に戻った者もいるが、多くの人々はそうはできず、移住した土地において日雇労働者としてなんとか暮らしを立てている。そうでなければジャングルにおいて隠れ住み、耐えきれなくなるとタイに避難する。モンやカレンの人々と同様、シャンの少数民族もまた経済的、社会的、文化的権利をSPDCによって組織的に略奪されている。シャン人の大多数は上座部仏教徒の稲作農民であるが、対ゲリラ戦域に住む人々は土地と村の伝統を失ってしまった。

強制労働

 以前と同様、アムネスティと面会したシャン難民の多くは強制荷役、道路や建物の建設、また軍用の作物栽培等、多種の仕事をビルマ国軍に強制されていた。移住地に住む人々は、近くに駐屯する軍によって選択の自由を奪われた労働資源となったが、村に住む人々もまた定期的に強制労働に駆り出された。彼らに賃金が支払われることはなく、食糧は自給しなければならなかった。

 マンカーン(Murngkern)町に移住させられた男性(31)は、大豆栽培または柵立てといった強制労働義務を一日おきに果たさなければならなかったという。また彼は、2002年2月に田畑にそっと戻ろうとした時、SPDCの兵隊に捕まり強制荷役を二日間課されたと語った。捕まったと時は蹴られたり殴られたりしたという。彼は、なによりもそれが理由で避難を決意したという。

 マンパン(Murngpan)町に強制移住させられた後に日雇労働者として働いていた男性(48)は、月に10回軍のために働かなければならなかったと語った。労働義務は、稲田での苗植えと収穫、魚用の池掘り、道路開拓等であった。労働者の指導と警備以外に兵隊自身は仕事を全くしなかったという。また荷役として2000年に3回、服と弾薬の運搬を国軍に強いられたと話した。

 マンケーン(Murngkern)郡ホーカイ(Ho Kai)地域出身の男性(27)は、2000年に5日おきで強制労働に従事したという。ビルマ国軍の第99部隊と第514部隊の兵士のために、石を集め、道路を修理し、作物を栽培した。また同年中、荷役労働者として17度も拘束されたという。10月に5日間拘束されたのがその年最後であったが、この時に縦隊に着いていくことができなかったため第99部隊の兵士に殴られ蹴られた。

 1999年にライカー(Laikha)町に強制移住させられた男性(25)は、2000年に毎月15日間強制労働のために拘束され、年を通じて20回も荷役を強制された。その年の12月には岩を運搬、道路の舗装、木と竹の切り出しといった仕事を15日間しなければならなかったという。労働者は、普通夜には家に帰るので幾分稀なことだが、彼は仕事場で寝なければいけなかった。仕事が遅すぎるという理由で、顔の右側を10回銃の台尻で殴られた。そのせいで意識を失いその後数日発熱した。彼はまた第99部隊と第64部隊のための弾薬と米の運搬という荷役労働を果された。村の強制移住にSPDCが来た時、牛を射殺されて、村を焼くと脅かされた。移住の後は、仕事が見つからず家族を養うために所持品を売らなければならなかった。

 ナムザーン(Namzarng)郡コーラン(Kholam)町に強制移住させられた男性(25)もまた、強制労働中に虐待を受けた。彼は第606部隊のために2日おきに道路と塀の建設作業に従事しなければならなかった。彼は、ビルマ語が分からないために蹴られた。2000年9月に野菜を集めにコーラン(Kholam)町を出た時には、第66部隊に3日間拘束された。夜には逃げられないよう棒につながられたりもした。この時もまたビルマ語での指示が分からなかったため、殴られたり蹴られたりした。

 マンカーン(Murngkerng)郡ンガイ(Ngai)地域出身の女性(22)は、月に15回も強制労働に課された。彼女はその時の経験をアムネスティに以下のように話した。

 「いろんなことをやらされました──道路や軍施設構内の掃除をしたり、丘の上の野営地まで水を運んだり、…… 。7才か8才の頃からでしょうか、思い出せる限りずっとそんなことをやさられました。2000年9月には5日間柵立ての仕事をさせられました。夫は荷役仕事をやらされましたが、男が行けない時は女が行かされました。女は男より従順なのでとてもひどく打たれました。」

 マンナイ(Murngnai)郡クンモン(Kun Mon)地域出身の男性(30)は、2000年2月に荷役仕事から逃亡した7日後にタイに着いた。強制荷役労働中に激しく殴打されたことと、友人の殺害を目撃したことを避難の理由としてアムネスティに話した。彼は、12才の時から定期的に荷役労働を強要されていた。最後は2001年の始めで、1月18日に捕らえられ、2月5日に逃亡した。食糧や背負い袋を第99部隊のために運ばなければならなかったが、3日の間食べ物を十分に与えられなかったため、ほとんど歩けなくなるまで弱ったという。銃の台尻で頭を「10回か20回」打たれ気を失い、気を取り戻すとまた打たれた。荷役労働中、友人のサ・ティ・ヤ(Sa Ti Ya)(45)がトゥン・ヒン(Tun Hing)の彼の家から連れ出され、シャン州軍南部(SSA-South)の一員として疑い責められ、殴打されるのを目撃した。男性はその後何が起ったかを次のように話した。

 「彼は農民でしたが、また地元の民間治療師でもありました。…… かなり長いあいだ打たれた後に射殺されたのです。後頭部に2発、即死でした。目の前で起ったので、私は恐怖で気を失いかけました。死体はそこに放っておかれたままで、その後私たち2人(の荷役労働者)は連れ出されました。私は途中で脱出に成功しましたが、もう一人の男はその翌日殺されたそうです。自分では目撃しませんでしたが、そう聞きました。射殺ではなく、叩き殺されたと。…… 名をペイ・ティ(Pey Ti)といい、20才でした。…… 私の前の女房の兄弟だったので知っていました。なぜ殺されたか私には分かりません。怪しまれたり責められたりするのは聞きませんでした。彼は単に荷役労働者であっただけな訳ですから。」

 目撃者の男性は、柵立てや軍設備構内での仕事等、他の種類の強制労働にも課せられた。「ほとんどいつも」のことだったという。

 マンパン(Murngpan)町に強制移住させられた女性(48)は、日雇労働者として他の人々の農場で働くことによって生き延びたという。インタビューを受けた他の難民と同様、土地を失った後、強制労働に従事させられながら生きていくのは不可能であった。軍が彼女の村を退去させに来た時、彼女は27頭の牛を打ち殺され、されに稲田を押収された。彼女は2001年2月に夫と4人の子どもと共にタイに到着した。労働義務は毎4日おきにあったという。労働内容は、道路拡大の工事、作物の栽培、住居の構築、そしてパゴダの建設にまで至った。彼女の人生において、強制労働がいつ始まったか思い出すことはできないという。「SPDCによる虐待を話し出したらキリがない」と語った。

超法規的処刑

 アムネスティと面会したシャン難民の多くは、SPDCによる超法規的処刑について語っている。彼らが話した親類や知人の犠牲者は計22名に達した。シャン州軍南部(SSA-South)の一部と怪しまれたり、移住地から離れて食糧の栽培や収集を試みたりした村人はビルマ国軍に殺害された。以下は超法規的処刑の最も最近の例である。

 マンパン(Murngpan)郡ダ・テ(Da Te)村の出身の女性は、村と共にマンパン(Murngpan)町に強制移住された首長プークハン・サイ(Phukhan Sai)(70)の殺害について話した。2000年5月、約15人の兵士が彼らの地区に来て家の一つを襲った。地元の指揮官は、以前から住人に、国軍による虐待はいかなるものでも自分に知らせるようにといっていたが、この時首長が略奪された家に行こうとしたところお、兵士に道を塞がれ、胸を刺され殺されたという。その後、指揮官は事件を調査したが、兵士は自衛上の行為であったと報告した。重武装した兵士に襲いかかるようなようなことはありえない、と面接した女性は話した。この女性の話では、首長の家族への賠償はまったくなく、逆に指揮官は首長の「過ち」に対し、村から6000チャットを軍のために徴収した。

 マンカーン(Murngkerng)郡出身の農民は、2000年10月に起きた国軍による彼の同僚サン・ニョウ(San Nyo)の殺害を伝えた。彼はシャン州軍南部(SSA-South)のスパイとして訴えられたが、目撃者の男性によれば、サン・ニュウは単なる村人であり武装集団とは何の関係もなかった。稲田に水を引いている時に第99部隊に捕まえられ、厳しい殴打と拷問を受けた。しばらくして男性がサン・ニョウの死体を発見した。耳の一つが切り取られ、頭蓋骨が砕かれ、他にも多くの骨が折れていた。死体を埋めた者は処罰されると国軍は脅かしたが、家族があとで葬式を行った。

 ナムザーン(Namzarng)郡出身の男性(25)は、コーラン(Kholam)町に強制移住させられた後、同じ村から来た2人の男性が殺された様子を話した。2000年11月にパン・ティ(Pan Ti)(35)とマ・ラ(Ma La)(約40)は、竹を切りに牛車で町を出たところを国軍に捕らえられ殴殺された。牛も殺され牛車は焼かれた。二人の死体は捜しに出た親類に発見され埋められた。マンカーン(Murnkerng)郡出身の女性(23)は、同じく2000年11月に起きた彼女の叔父ロン・ナウ(Long Naw)に対する超法規的処刑について語った。人里離れた農地で働いていると、第99部隊に捕まりクン・ナー(Khun Na)まで連れていかれた。そこで彼は殴打され、殺害された。死体はSPDCによって枝で覆われていたという。

 マンナイ(Murngnai)郡から来た農民(32)は、その地区で起きた第246部隊による二人の男の殺害について話した。民間治療師サン・ティ・ヤ(Sang Ti Ya)(62)は、兵士によってパロウン(Palaung)(注13:パロウン(Palaung)は、シャン州に住む別の小さな少数民族である)のさびれた村ロイ・サイ(Loi Sai)に連れていかれた。

 目撃者が後に彼の死体を見つけたが、刃物や銃による傷はなく、骨の多くが折れていたという。枝で覆われていた死体は、目撃者の男性と他の村人によって移動され埋められた。サン・ティ・ヤ(Sang Ti Ya)の死の数日後、ホー・ハ(Ho Ha)出身のパロウン(Palaung)の首長ルン・ポウ・カム(Lung Paw Kham)(48)は第246部隊に拘束された。マンナイ(Murngnai)郡クン・モン(Kun Mon)地域に位置するホー・ハ(Ho Ha)は、国軍による強制退去のあった土地である。ルン・ポウ・カムはホー・ハに戻って農地で働いてもかまわないと村人に伝えたようであり、兵隊に捕まって両方の耳を切り取られた。耳のない死体に銃弾の跡は見つからず、多くの刺し傷があったという。

 別の男性(37)は、2000年9月に起きたクンヒン(Kunhing)郡ナ・テン(Na Teng)地域ナ・カ・オン(Na Ka On)村出身の同僚2人の殺害について語った。30才代の農民ニャ・ナ(Nya Na)とワ・リン・タン(Wa Ling Tan)は、SPDCによって殴殺された。事件を目撃したこの男性は、木の上に隠れていたという。殺された2人の男性とは隠れ地で「食糧と苦難を共にしていた」仲間だった。2人が殺された後、村の家14軒が兵隊によって焼き落とされたと目撃者の男性は伝えた。

 アムネスティ・インターナショナルは、シャン州中南部における同じような人権侵害のパターンを過去4年にわたり記録している。武装反政府集団が活発に行動する地域に住むモン、メルギー、カレンの民間人と同様、シャンの人々もまたSPDCの対ゲリラ活動の犠牲者となっている。これらの人権侵害により、いまだに毎月シャンの民間人の多くがタイへ逃れているが、避難先でも好ましい保護は受けられない。


結論と勧告

 アムネスティ・インターナショナルは、少数民族に対する超法規的処刑、拷問、強制労働と強制移住、強奪等の人権侵害が、ビルマ(ミャンマー)の国軍によってあまりにも激しく行われ続けていることを憂慮する。民族性と、たまたまそこに住んでいることのみが理由で、彼らは暴力の対象になっている。アムネスティはSPDC(国家平和開発評議会)に以下の点を勧告する。

  • アムネスティ・インターナショナルは、戦闘地域における民間人の扱いに関する国際人権法、および人道法の基本的原則にSPDCが従うことを促す。4つのジュネーブ条約(注14:ビルマ(ミャンマー)はジュネーブ条約を批准している)の共通条項第3条(Common Article 3)は、条約署名国の領域内で起きるあらゆる非国際的性質の紛争に適応され、また戦闘に参加する者全員にも適応される。この条項は、戦闘において積極的役割を担わない者──これは武器を置いた兵士やいかなる形でも戦闘力を失った軍人を含む──の扱いにおける人道的行為について最低限の基準を規定している。この条項の第一項においては、とりわけ「いかなる種類の殺害」をも禁止している。
  • アムネスティ・インターナショナルは、SPDCが超法規的処刑の停止、厳密に人命保護ためのみの武力と武器の使用、また全ての超法規的処刑の調査と責任者と見なされた者の裁判を命ずるよう勧告する。
  • アムネスティ・インターナショナルは、SPDCが拷問と虐待に関するすべての報告書を調査し、またそうした行為を直ちに止めるよう軍に明確に命ずることを要請する。
  • アムネスティ・インターナショナルは、SPDCが1969年の国連の「あらゆる形態の人種差別撤廃に関する国際条約」を批准することを求める。
  • アムネスティ・インターナショナルは、SPDCが国連の「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」を批准することを要求する。
  • アムネスティ・インターナショナルは、SPDCがILO調査委員会の強制労働の廃止に関する勧告を満たすよう勧告する。
  • アムネスティ・インターナショナルは、SPDCが1997年12月のオタワ条約 (「対人地雷の使用、貯蔵、生産および移動の禁止並びに廃棄に関する条約」)に従うこと、地雷の埋蔵を停止すること、そして地雷が埋められた全地域において除去事業を開始することを求める。
  • アムネスティ・インターナショナルは、SPDCが最悪な形態の子ども労働に関するILO(第182号)条約に従うよう求める。
  • 子どもに対する強制労働について、アムネスティ・インターナショナルはSPDCが署名国として子どもの権利条約32条の義務を満たすことを求める。32条は次のように規定している。
     「国の関係機関は、子どもの権利を理解し、経済的搾取やその他の危険または子どもの教育を阻害し、あるいは子どもの健康や身体的・心理的・精神的・道徳的また社会的な発展に有害なあらゆる労働から子どもを擁護する」
  • アムネスティ・インターナショナルはSPDCが市民的および政治的権利に関する国際規約を批准するよう求める。

 以上

訳:Masao Imamura
翻訳責任:アムネスティ・インターナショナル日本 ビルマ(ミャンマー)調整グループ

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問合せ先:
アムネスティ・インターナショナル日本 ビルマ(ミャンマー)調整チーム
E-mail:
〒101-0054 東京都千代田区神田錦町2-2 共同ビル4F
TEL:03-3518-6777
FAX:03-3518-6778





(c) ビルマ情報ネットワーク(BurmaInfo) 1997〜



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